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第四章 「翔太」 1「コンビ解散」
翔太はじりじりと焦りを感じた。
先日のお昼休み、亮太とネタ合わせを試みたが、思っていたようにはうまくいかなかった。気持ちがすっきりせず、ボケとツッコミのタイミングが明らかにずれて、言葉に流れがなく、うまくいかない。
簡単に言えば息が合わない。
明らかに、最近の亮太は集中力が散漫だ。練習にも身が入ってない。家のことが気になってしまうのはしかたがない。でも、二人で打ち合わせや練習をしているときは、気持ちを切り替えて一生懸命にしてほしい。せめて意気込みは感じさせてほしい。
今週もダメ。じゃあ来週には。また今週もダメ。
無駄に日を重ねているように思える。
神田君達へのネタ披露も、しらけた感触しか伝わってこない。笑いが一つも取れない。
正直言って、焦る。
だが、亮太の責任だけではない。亮太だけが悪いのではない。
亮太がミスをしても、ツッコミでフォローができない自分に不甲斐なさを感じた。
自分の気持ちが不安定でうまくできてないと感じた。なにかがずれている。原因がわかれば解決策も考えられるのに、そのなにかがわからない。
翔太は無性に腹が立ってきた。怒りにまかせて歩を進めた。
どうしたんだ俺。なにをしているんだ俺。どうするんだよ俺。
自分に問いかけても答えは出て来ない。
七海ちゃん、ごめんよ。
翔太は黙々と狭い歩道を歩いた。しばらく歩いて横断歩道で信号待ちをした。
車が車間距離を大幅に開けて数台通りすぎる。誰かが自転車で近寄り横付けした。
翔太は目を合わさないように真っ正面の信号機を見た。
「君、窪塚翔太君だよね」
聴き慣れない声がした。でもはっきりと自分の名前を呼んだ。
翔太が横へ目を向けると、学生服を着た男がにこにこして翔太をまっすぐ見ていた。
「窪塚君でしょ」
翔太は見知らぬ男に声をかけられて、戸惑った。もしかしたらからまれたのかも。
「あの俺、怪しい者じゃないから。俺、T高校の堤健太です」
「T高、堤」
「やっぱり知らないか。まっ、初めまして」
「その堤君がなに。なんか俺に用」
「まあそんなに身構えないで。と言っても無理か。要件を先に言うよ。俺もマンザイをしてるんや。それで、俺とコンビを組まないかって言うこと。どう」
「どうもなにも、俺にはもう相方がいるから」
「まあまあ、それは知ってるよ。知ってるけど、いまいち息が合ってないでしょ。俺と君ならびしびし決められるぜ」
「いいよ。そんなの。コンビを変える気はないから」
「でもウケると気持ちがいいぜぇ。最高の気分だぜ。まあ無理強いはしないからさ。一応、今度のマンザイ甲子園まで考えてくれないかな。頼むよ。じゃあね」
「堤君はそんなことを言いにわざわざここまで来たのか」
「それだけ窪塚君が俺にとって大事な存在って言うことです。じゃあまた」
なんか歯の浮くようなことを言い残して去った。
翔太は堤と会話をしているとき、妙に見覚えのあるやつだと思えた。どこかで見たことがある気がする。でも藪から棒になんやあいつ。まぁええ。T高なら友達もいるから電話で訊くこともできる。
「T高校の堤健太か」
翔太はつぶやいてゆっくり歩き出した。
翔太が家に帰ると、いつもの事ながら、母から勉強のことを言われた。
今日は父が早く帰って来るから勉強をするようにということだ。翔太は溜息をついて、気怠そうに自分の部屋へ直行した。とりあえず、いつ誰が部屋に入ってきてもいいように教科書とノートを机に出した。ノートの上にネタ帳を広げた。足音が聞こえてくれば、素早くネタ帳を隠す。こんなことをしなければならないほど、両親は勉強以外のことに理解を示してくれない。進路についても、最近は口やかましく言うようになった。特に、兄が有名な大学に合格してからは、肩の荷が一つ下りたと言って、白羽の矢が自分の方に向いた。自分なりに進路は考えている。考えてはいるが、とても父には言えない。言えば烈火のごとく怒りだし、最悪の場合は勘当もありえるだろう。どう考えても俺の夢になど、父はまったく耳を貸してくれないと、容易く想像はできる。公務員として世間を見続けている父は、いまだに学歴が物を言うと信じている。そんな父に、「お笑いの道に進みたい」などと、口が裂けても言えない。たとえ家を飛び出す決心をしても、高校を卒業するまでは隠し通さねばならない。
翔太はふと考えた。亮太はどうなんだろう。俺についてきてくれるだろうか。今の亮太を見ていると、なんとも言えない。いや、もしかしたらあっさりマンザイの道をやめてしまうかもしれない。あいつには美咲ちゃんがいる。たった一人の家族である母親もいる。大事な人を二人も残して、俺と一緒に飛び出してくれるとは考えにくい。
「コンビ解散」小声でつぶやいた。
翔太は考えてもいなかったことにぶつかった。想像するだけでも恐ろしい。
「堤健太」
今日初めて会った男の顔が浮かんだ。
「なに考えてんねん」
翔太は思わず口に出して叫んだ。
どうしてなにも知らないやつのことなど思い出したんだ。お前はアホか。なにを動揺している。なにを怖がっている。これも、亮太と向き合って話せていないことが原因だ。亮太の状況にもよるが、一度、本音を打ち明けて、二人で将来のことを話し合う方がいい。
翔太の心は暗くなった。机に広げたネタ帳を閉じて、引き出しに押し込んだ。
八時頃、父が背広姿で翔太の部屋に入ってきた。
「翔太、もうすぐテストだろ。そろそろ本腰を入れて勉強をしないと、大学には行けないぞ。翼みたいにとまでは言わないが、今の世の中、学歴がないと就職先は見つからない。わかっているのか」
またいつもの兄との比較論が出てくる。言い返しても頭ごなしに叱られるだけ無駄なことだ。翔太は無言で聞いた。
「ほんとに将来のことを考えているのか」
「うん」
翔太はできるだけ短い返事ですませた。
毎回、父から同じことを言われる。しかも怒り口調だ。これじゃあ、会話にも相談にもなりはしない。翔太の気持ちは萎縮していく。
父はいつも睨みながら話をする。この威圧感がたまらなく嫌いだ。また、蔑んでいるような表情にもうんざりする。自分の思いや伝える勇気が小さくなっていく。それがかえって父にはやる気がないように見えてしまうのだろう。ちゃんと伝えなきゃと頭ではわかっていても父を目の前にすると言葉を失ってしまう。将来のためを思って助言をしているのなら、もっと普通に話をしてほしい。俺は俺なりに、自分の将来を、進路を真剣に考えている。でも、父には意気込みが伝わらないのだろう。無気力でだらだらと生きているようにしか映っていないのだろう。この思いのギャップに、父の腹立たしさがひしひしと伝わってくる。その証拠に、父が口を閉じたまま鼻で呼吸をした。
「とにかく、自分の人生なんだから真剣に考えろ」
父はため息のような口調で言い残し、部屋を出て行った。翔太はなにもやる気がしなくなり、ベッドに寝転がった。
翌日、翔太は学校へ行っても気分が晴れなかった。
亮太と話をしても、母ちゃんが、母ちゃんが、と心配事を言い並べる。母親を心配することは別に悪くはない。親子なんだから当り前のことだ。しかし、口を開けば、母ちゃんがと言う。さっきから同じことばかり言う。もうわかってるよ。と言いたくなるくらいしつこく繰り返す。ネタになるような話題はないのかよ。といい加減うんざりしてきた。
翔太は席を立って、教室を出た。
最近は亮太と会話をしてもはずまない。まったくおもしろくない。俺、なにをやっているんだろう。翔太は自分のおかれた状況に疑問を感じた。
翔太がトイレに行くと、あとから竜二が入ってきた。
「連れションだな」
「あっ、神田君」
「君か、あいかわらず亮太とは、一歩分距離が離れてるな」
「なにが」
「まぁいいけど、元気ねえな」
「そんなことないけど」
「そういうときはマンザイからちょっと離れてみろよ。しばらく練習は中止だ。練習したところで、息の合ってないお前らのマンザイを観たっておもしろくもねえしな。なんか蟠りがあるなら吐き出せよ。お前らコンビだろ。一度くらい本気でぶつかってけんかでもしろ。そうすれば奥の深いものが見えてくるよ。じゃあな」
神田君に痛いところを突かれた。反論の余地もない。ぐうの音も出ない。俺の心は燻っている。
翔太は手を洗いながら鏡に映る自分の顔を見た。覇気のない面が映っていた。
授業が終わって、ホールへ行かないか。と亮太と伸一に誘われたが、翔太は断ってまっすぐ家へ帰ることにした。
「翔太、どうしたんだ。元気ねぇな。亮ちゃん、なんかあったのか」
「わかんない」
二人の疑問視する声が背中に聞こえたけど、振り向くことはしなかった。
翔太は机の前に座り、ネタ帳も出さず、勉強をした。
こんな気持ちでネタを考えても、なにひとつおもしろいことなど考えつかない。それなら勉強でもしないと、テストで思わしくない結果が出れば、また親から小言を聞かされる羽目になる。それだけは勘弁してほしい。少なくとも現状維持の結果を残さなければならない。翔太は教科書に意識を向けた。翔太は一時間で集中力が途切れ、ベッドに寝転がった。こんなとき、亮太がいれば、「寝たら死ぬぞ」とか定番のギャグでも言うんだろうな。
翔太の口元が微かにゆるんだ。すぐにぎゅっと口を閉じて、去年のことを思い出した。
去年の七月、亮太とコンビを組んでマンザイ甲子園に参加した。
マンザイ甲子園には、毎年、全国から九百組以上のコンビが出場する。
期間は七月上旬から三十九日間で行われる。
都道府県ごとに四十以上の会場を設け、地区予選を行う。
決勝大会には各ブロックの優勝者を含め上位十組が参加できる。
決勝大会が俺達のめざす甲子園だ。
希望には俺達の目も輝いた。
しかし、結果は無惨にも一次予選敗退。
一生懸命やって、実力を出し切って負けたなら、まだ納得ができる。でも、俺達は観客の多さと、会場の醸し出す緊張感と、他の参加者に囲まれたプレッシャーから舞い上がってしまい、まったくマンザイにならなかった。俺達がどんなネタをしゃべったのか、自分がなにをしたのかさえ思い出せないほどひどかったからだ。俺はあのあと泣いた。おもいっきり泣いてしまった。そばにいる亮太でさえどうしていいのかとおろおろするほど、俺は冷静さをなくして泣いたんだ。心の中で何度も謝りながら泣いた。
俺が神田達の前でマンザイをするにはそれなりの理由がある。
プロの漫才師でも、舞台の場数を踏むことは大事なことだ。観客にねられてねられて成長していく。舞台度胸もついてくる。それがやじられる舞台ほど練習になる。やじる相手を笑わせることができれば、実力がついたと認識できる。自信がつく。観客や周りの雰囲気に飲み込まれない。そう考えて俺は神田達の前でマンザイをしている。ただうれしい誤算は、不思議だが、神田君の助言があまりにも的確で、言うことがなにもかも的を射ていることだ。俺達が上達するにはうってつけの観客だ。視聴者のプロと表現してもいいくらいだ。もし神田君を笑わせることができたなら、自信を持って参加できる。今年は最後の年だ。去年の二の舞はごめんだ。そう思えば思うほど気ばかりが焦ってくる。おまけに神田君には、「マンザイから離れてみろ」と最悪のダメ出しをされた。こんな状態で参加などできない。参加したところで惨めな結果が想像できる。どうすればいい。なにをすればいい。
翔太は精神的な暗闇に落ち込み藻掻いた。
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