第四章 「翔太」 4「他人の努力は無視かよ」

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第四章 「翔太」 4「他人の努力は無視かよ」

 翔太は家に帰ってから机に座ったまま動かなかった。  勉強をするでもなく、ネタ帳を出してなにかを書き出すでもなく、じっと座禅(ざぜん)のように無言で座った。けれど無心とまではいかない。頭の中だけが活動を繰り返している。  振り返る。毎日、今日の一日を振り返る。  毎日、なにもない。なにも起こらない。なにも見えてこない。  振り返って、振り返って、思考を巡らせても、翔太には見いだせるものはなかった。  自分が「無力」なんだと残念に思う気持ちがあるのなら、まだ自分という存在に価値があるように思えるが、今の翔太には、自分が「失」である。としか思えなかった。  この先に悟りという光が存在するのなら、希望というものが見えてくる。欠片でも見えたなら、なにか行動にうつせる気もしたが、なにも見えてこない。なにをやっているんだと憤慨する気力があるのならまだいいだろう。しかし、自分に不甲斐なさを感じる気持ちさえ失われたように思える。自分が停止したまま、時間だけが過ぎているように感じる。日が暮れると虚脱感だけが残される。今日も一日が終わってしまう。  翔太はベッドに体を滑り込ませて眠り込んだ。   金曜日の夜、兄の(つばさ)が突然帰郷した。翼がいきなり翔太の部屋に入ってきた。 「おう、翔太、元気そうじゃないな」 「どうしたんだよ、兄ちゃん。まだ夏休みでもないのに今日帰ってきたの」 「ああ、今着いた」 「なんかあったの」 「なんかあったのじゃないだろ。でも、いいねぇ、関西弁。帰ってきた気がするよ。とにかく座らせてくれ。ああ、くたびれた。やっぱり三時間を超えると帰省も楽じゃないよな。けっこう体が疲れるよ。翔太、ベッドと場所を交替してくれ。お前は若いんだから椅子に座れ」  翔太が起き上がって机の前に座り、翼がベッドに寝転がった。伸びをして気持ちよさそうに天井へ目を向ける。翼が翔太の目を見ずにしゃべりだした。 「僕がどうして五月の連休に帰らず、今日、家に帰ってきたかわかるか」 「休みだから」 「バカ、今日帰ってきても、日曜日にはまた行かなきゃならないのに、わざわざ東京から高い電車賃を使って帰ってくるやつなどいないよ。父さんから電話があったから、僕が帰って来たの。僕が帰ってきた意味がわかるよな。お前さあ、どれだけ親に愛されてるかわかってないだろ。父さんから『わしじゃダメだから、翼から話を聞いてやってくれ』って頼まれたの。お前、父さんとは話ができないみたいだな。親が息子に頭をさげるって、とてもできることじゃないぞ。それを頼まれて帰ってくる兄貴もそうそういないぞ。ちょっと恩着せがましく言ってやる」  翼が怒るでもなく、はっはっと小さく笑った。 「そう言うわけだから、まずは飯でも喰ってからにしようぜ」  翼ががばっと起きて、部屋を出て行った。    夕食の時間になって、翔太は台所へ行き、翼の対面に座った。  翼は無言で食事をしている。翔太は翼の喰いっぷりに目を見張った。まるでこの日のために断食でもしていたかのようにご飯をおかわりする。翔太は箸を持ったまま翼を見続けた。 「父さん、今日は飲み会で帰りが遅いらしいぞ。お前も早く食べろよ。食べ終わったらゆっくり話をしようぜ」  翼は言い終わると、がつがつと飯を食べ始めた。翔太もおかずを一口入れて咀嚼(そしゃく)した。  母の直美はなにも言わずに上目遣いで兄弟を眺めた。    翼は翔太の倍以上食べていたにもかわらず、早く食べ終わった。 「はあ、喰った喰った。極楽だ。ごちそうさまでした。あれっ、翔太、まだ喰ってんのか。僕は先に部屋へ行ってるからな。そうだ。母さん、缶ビールもらっていくからね」 翼は鼻歌を歌いながら台所を出て行った。  また母の小言を聞かされるのもごめんだと、翔太は御飯をかっ込んで食べた。  翔太が部屋に入ると、翼はベッドに腰をかけてビールを飲んでいた。 「兄さん、飲めるんだ」 「まあな。大学生になればいろいろつき合いもあるんだよ。それに心の話はアルコールを入れるか、真夜中に話をするか、そのどちらかがいいんだよ。その状態の方が人は本音を打ち明けやすくなるからさ。お前も飲むか」 「俺はいいよ。高校生だから」 「真面目だねぇ。僕なんか高校生のときから飲んでたぜ」 「ほんとに」 「なんだ、お前は僕がただ勉強だけが取り柄の真面目人間だとでも思っていたのか。大間違いだな。だいたいお前は昔から僕のことを誤解してるよ。まっ、僕は周りからも誤解をされて生きてきたから今さらなんとも思わないけど」  翼が言い終わるとぐびっと喉を鳴らしてビールを飲んだ。  翔太は目を丸くして翼の行為を眺めた。翼が続きの話を始めた。 「僕は周りの人から、『優等生だ。真面目だ。温和しい子だ』と言われていたけど、本人はまったく違う思いだったよ。よくもまぁ僕のことをなにも知らないで、勝手に偏見の目で見てるなと、いつも心の中で思ってたよ。僕はそんな人間じゃない。と心の中で叫びつつね。僕に、相談に来る友達はもっとひどいもんだ。僕が助言をすれば、『それは君が優秀だから』とか、『有名大学に入れたからだ』とか言って反論だけじゃなく、批判までするんだぜ。がんばれるように助言をしてるだけなのにさ。まったくアホらしいったらありゃしない。ほんとは言ってやりたいぜ、『他人の努力は無視かよ』ってな。そうやって人の話を聞かないやつが多い。僕は相手のためを思って真剣に話をしてるのに、否定されてしまう。たまんないぜ、まったく。今まで話したのは序論だ。これからが本論だ。翔太、わかるよな。じゃあ、お前の話を聞かせてくれ。僕は兄として弟のために意見を言うよ」  翼の話が終わり、翔太は驚きを隠せなかった。  優等生で、温和しくて、親からも信頼されている。そんな兄が心の中で不満を抱いていたとは、今までなにも知らなかった。今日の兄は、目の前の兄は、一歩近づいた頼れる先輩に思えた。翔太は恥ずかしさもかなぐり捨てて本心をぶちまけた。  友達の亮太が俺を選んで、向こうから飛び込んでくれると思って亮太の気持ちを試したこと。その結果、亮太が自分から離れていったこと。また亮太が離れていったことで、たった一人の友達が離れただけで、みんなが離れていったこと。自分には友達がいないとショックで落ち込んだこと。誰も自分には興味を示さず、無視されていること。周りの景色がよそよそしく見えること。なにもかもがいやになったが、解決策が見当たらないこと。  翔太は頭を垂れ、沈んだ声で最後に言った。 「自分が不甲斐ないんだ。どうしょうもなく情けない」  翔太の話を聞き終え、「なるほどね」と翼が静かに言ったあと、上半身を壁に預け、天井を見つめた。  翔太は無言で翼を見続けた。 「感情論は最良の道を見失うぞ」 「えっ、なにそれ」  翼の言った意味がわからず、翔太が聞き返した。  翼が一気に話し出した。 「お前さぁ、相手に合わせて自分の素振りがあると思ってないか。それ逆だぞ。お前の素振りやその落ち込んだ表情を見て、相手の人が気遣って距離をおいてるんだぜ。『人は鏡だ』とか言う人がいるだろ。大概(たいがい)の人は相手の素振りで自分が鏡のように応じると思っているけど、相手が自分の鏡になることもあるだろ。今、お前の話を聞いて思うけど、全部自分の責任じゃないのか。相手を変えるか変えないかは、お前の気持ち次第だよ。どうして人に手を差し延べられることを望むんだ。人の好意を待つな。人が気遣うことを期待するな。もっとはっきり言えば、大事な友達なら試すようなことはするな。自分のしたいことがあるなら堂々と胸を張ってやってみろ。夢があるなら目を()らすな」  翼が一息ついて、枯れた喉を(うるお)すようにビールを飲んだ。  翔太は黙り込んだまま考えた。翼がまた話し続けた。 「お前さあ、お笑い好きなんだろ。『いいこと言うぜ、兄貴』とかツッコミくらい入らないの。今、いいこと言った気がするけどねえ。まあいい。ものはついでだ。父さんにもちゃんと話をしろよ。お前の人生なんだから。手を差し延べてもらおうとするな。自分の期待する道を、他人にレールを敷いてもらうな。自分のレールは自分で敷け。最後に結論を言うぞ。お前は自分が思うように自由に生きろ。自分の道を自分で選んで自分で歩け。おう、ちょっとリンカーンに似てたな」 「似てねえよ。『自分』が続いただけだよ。オブ、バイ、フォーと五十音順で続くの」 「おっ、ナイスツッコミ」  翼の笑みにつられて翔太も笑った。 「さてと、今度は台所にいる母さんの愚痴でも聞いてこようかな。じゃあ、またあとでな。あっ、それからここに僕の蒲団を敷いてくれ。今日はここで寝るから」  翼が背を向けて立ち上がり、右手を挙げて部屋を出て行った。  翔太は椅子に腰かけたままくるりと一回転させた。    翌日、翼は同級生に会いに行くと言って、家を出ていった。  翔太は翼の言葉を思い返しながら日中を過ごした。  兄は変わったと思いたい。俺が思っていた兄は、そもそも俺の認識違いなのではなく、地元を離れ、都会の生活を過ごしたことで、あの堅物で面白味のない兄が変わったんだと思いたい。昨日の兄の姿が高校時代から変わっていないとしたなら、俺はいったいなにを見ていたのだろう。人を見る目がまったくない。洞察力の欠片もない。自分がとても薄っぺらい人間に思えてくる。何度思い返しても、昨晩の兄からは、とても話しやすく、頼り甲斐があり、厳しいことを言いながらも優しさが伝わってきた。本当に魅力のある人間に見えた。翔太はもう少し翼と話がしたいと思った。  翼は夜中まで帰ってこなかった。  翼が部屋に入ってきたとき、そうとう酔っぱらっていた。酔ってはいるが、言うことはしっかりしていた。 「翔太、起きろ。お兄様のお帰りだ」 「うわぁ、なんだよ兄ちゃん。ひどいな」 「ひどいじゃない。忘れないうちに言っとくぞ。明日、大阪まで僕を送っていけ。いいな、ちゃんとお見送りをしろよ。出発は朝一番だからな」  翼が言い終えると、ばたんと蒲団(ふとん)に倒れて寝入った。  そんなに酔っぱらって、本当に明日の朝に起きられるのかよ。「難儀(なんぎ)な人やなぁ」と翔太はつぶやいて蒲団をかぶり直した。  日曜日の朝、翼が帰ると言って翔太を起こした。  翔太は眠い目を擦りながら服に着替えた。  二人で電車に乗って大阪をめざした。  翼は新大阪駅まで行かず、天王寺駅で途中下車をして、地下鉄で難波へ向かった。駅の改札口を出て街にあがる。人混みの中を抜けて歩いていく。足もとの道が見えないくらいに人で埋め尽くされていた。 「兄ちゃん、どこへ行くんだよ」 「なんでもいいからついて来い」  千日前の通りを歩いて、劇場へ向かった。 「ここだ。ここ。一度、生で観たかったんだよな」  翼と一緒に新喜劇を観て、翔太は大笑いをした。横目で見る兄の笑顔が輝いて見える。翔太は久しぶりに腹の底から笑ったような、体中で笑ったような、快い気分を味わった。  劇場をあとにして、翼がほがらかに言った。 「お笑いって、腹の底から笑えて、いやなことも忘れて、なんかすっきりするな」  翼の言葉が翔太の心に残った。  翔太は翼と新大阪駅で別れて帰った。家に帰ると一気に疲れが押し寄せた。  翔太はお風呂に入って、夕食も食べずに、ベッドに入って朝までぐっすり熟睡した。
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