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第四章 「翔太」 5「楽しそうにやってんじゃん」
翌週から思いを変えて学校へは行ったものの、思いとは裏腹に行動がともなわない。
一瞬、亮太と目が合った。タイミングが悪いのか、未だに心のどこかにしこりが残っているのか、以前のように振る舞えない。なんともさえない態度が続いてしまう。
再チャレンジのつもりで亮太に視線を送る。鬱ぎがちな亮太の横顔が見える。亮太、俺を見ろ。俺の方を向け。と願っても、亮太は窓の外を眺めたり、机に視線を沈めたりして一向に思いが通じない。翔太は溜息をついてトイレに向かう。
月曜日、火曜日、水曜日と地団駄を踏む割にはなにも進展しない。
あっという間に金曜日を迎えた。教室ではいつものぬるい状態が続く。
ふと気がつくと、亮太と伸一が教室を出て行った。翔太は重いかばんを肩にかけて一人で教室を出た。早く家に帰りたいと、翔太は学校から逃げるように歩いた。
翔太が校門を出たところで、誰かが追いかけてきた。
「ちょっと待ってよ、翔太君。意外と歩くの速いんやね。あたし、今日は自転車じゃないんよ。一緒に帰ってもええ」
美咲が息を切らせて横に並んだ。翔太は美咲に顔を向けてうなずいてから進路方向へ顔を戻した。
「翔太君、今日は時間ある」
「時間って、真っ直ぐ家に帰るだけだから別になにもないけど。その、なに」
「なにってわけじゃないけど、最近、あまり話してなかったやん。だから一緒に帰ろうかなって思っただけ。迷惑かな」
「そんなことはないけど。誰かに見られたら勘違いされるんじゃない」
「よく言うよ。全校生徒の前でネタにしてばらしたくせに」
「あれはその、悪かった。ごめん」
「怒りに来たわけじゃないんよ。あたしはいつまでも根に持つタイプじゃないから。今のは冗談や。前ならそこはツッコミを入れるとこやで。どうしたん。なんかよそよそしく感じるわ」
「そんなつもりはないけど」
「そう。ならええけど」
翔太はうんとうなずいて歩き続けた。美咲も口を出さずに黙々と歩き続けた。
翔太がちらっと美咲の顔をうかがえば、美咲が翔太を見ていた。翔太はどきっとして視線を逸らした。また沈黙が続いた。美咲が口を開いた。
「なんにも言わへんねんな」
「あいつ、なんか言ってるの」
「うふっ、『あいつ』だって。名前を呼べやんねんな。まあええけど」
「そう言うつもりじゃないけど」
「今日は翔太君にちょっと訊きたいことがあるんよ」
そのあと美咲はなにも言わずに唇を結んだ。
翔太はじっと美咲の言葉を待った。数メートル歩き進んで翔太が聞き返した。
「あの、訊きたいことってなに」
「やっと翔太君から訊いてくれたな。ほんまずっと一方通行なんやからまいるわ」
「そう言うわけじゃないけど、えっ、なに。なにを訊きたいの」
「たいしたことやないけど、たいしたことやないと言ったら失礼やけど」
美咲が焦らすように本題に入らない。翔太は美咲を誘引するように会話を続けた。
「美咲ちゃんらしくないね。いつもならストレートに言うのに」
美咲は笑みを浮かべて翔太に返答した。
「ストレートに言うより、まわりくどい方が女の子らしいかなっと思って」
翔太が驚いて美咲を見た。
「嘘、嘘。そんなこと今さら考えてないって。でもあたしが女の子らしいことを考えると、そんなにびっくりすることなんか」
「そんなことはないけど、美咲ちゃん、話がずれてる」
「ごめん、ごめん。帰り道が同じなのもあと少しやから、単刀直入に訊くわ」
翔太は唾を飲み込んで緊張した。たぶん亮太のことだろう。なんて答えればいいんだ。
「翔太君の楽しいことってなに。最近、楽しそうと違うやん」
翔太は意表を突かれて思わず立ち止まった。
「ちょっと、ちょっと。あそこの分かれ道までもう少しやから逃げないでよ」
「いや、逃げてないよ。ちょっとびっくりしただけ」
「それならええけど。それで、翔太君の楽しいことってなに」
「楽しいことって言われても」
「すぐに答えが出て来ないんやね。そうか。うん。わかった。じゃあ無理せんでええよ。返事は今でなくてもええから、答えが見つかったら今度教えて。じゃあ、あたしこっちの道やから。バイバイ」
美咲が手を振って走り出した。
翔太は美咲の背中を見つめながら思った。どうしてなにも答えることができなかったのだろう。どうして「マンザイ」と言えなかったのだろう。俺はなにをしたいのだろう。翔太は佇んでアスファルトの道を見つめた。翔太の心が千々に乱れた。
土曜日の夜、翔太が夕食を食べていると、兄から電話がきた。
「きょうでぇ、元気か」
「任侠関係じゃないよ」
「おっ、いいねぇ。ナイスツッコミ」
「兄ちゃん、どうしたの」
「それは僕の科白だ。あれからどうした」
翔太が翼に訊かれて、うまくいってない。進展していない。と正直に打ち明けた。
「そうか」
翼の返事は静かな声で届いた。一会話分間を置いて、翼が翔太に問いかけをした。
「あまりとやかく言うつもりはもうない。一つだけ教えてくれ。今、答えられなければ、僕の質問について考えてみてくれ」
「わかった」
「翔太、お前がお笑い好きなのはどんな理由だ。お前がお笑いをめざすのはどうしてだ。その根底にあるものを思い出せたら教えてくれ。どうしてお笑いがしたいんだ。お前の気持ちを今度聞かせてくれ。以上、それだけだ。僕は夏休みまで帰らないから、最後の高校生活を、青春を謳歌しろよ。やり残して後悔するなよ。あと父さんと母さんによろしくな。じゃあな」
翼が明るい声を残して電話を切った。
「どうしてお笑いがしたいんだ」と翔太は翼の言葉を復唱して部屋へ戻った。机の前に座り、去年のネタ帳を引き出しから取り出した。去年のマンザイ甲子園に参加したときのネタを黙読する。第一次予選も突破できなかった。おそらく参加者の中でも成績は下位の方だろう。ネタがおもしろくないとか、テンポが悪かったとか、そういうレベルの問題ではなかった。それ以上にマンザイになっていなかった。おろおろと動揺して、あまりにも情けなくて、翔太は泣いてしまった。
そもそもマンザイを始めたのは、笑ってくれる人がいたからだ。単純明快な理由だ。
翔太は親戚の佐野七海ちゃんを笑わせたくてお笑いに興味を持った。
七海ちゃんは幼い頃から翔太に懐いた。
「翔太お兄ちゃん、またギャグをやって」
七海ちゃんがにこにこして翔太に催促をする。
翔太はリクエストに応えて、テレビ番組で観たお笑い芸人のネタを披露する。七海ちゃんがけたけたと笑う。
小学校六年生の頃、七海ちゃんが長期入院をした。はっきりしたことは知らないが、回復の見込みがなく、もう長くないようだと、母から聞かされた。
翔太はお見舞いに行き、病室でネタを披露した。七海ちゃんは病室のベッドで笑った。
たった一人を笑わせたくて始めたマンザイ。たった一人の病人をはげましたくてマンザイを続けた。七海ちゃんに希望を持たせたくて、七海ちゃんの笑顔が見たくて、翔太は真剣にマンザイ甲子園をめざした。翔太は七海ちゃんと約束をした。
まずはマンザイ甲子園第一次予選突破。
運が良ければ準決勝のブロック大会突破。
神さまが味方すれば、マンザイ甲子園優勝。
いい結果が出れば、七海ちゃんの誕生日プレゼントにする約束だった。
七海ちゃんなら約束を果たせなくとも、「またがんばってね。また新しいネタを観せてね」と言ってくれただろう。翔太が後悔しているのは、結果そのものではなく、あまりにも無惨な結果に、恥ずかしくて、情けなくて、すぐに病院へ報告に行けなかったことだ。
七海ちゃんは大会の翌日に言葉と笑顔を失った。
七海ちゃんが危篤との知らせを聞いて、翔太は急いで病院に駆けつけたが、七海ちゃんは他界したあとだった。翔太は小さな七海ちゃんを呆然と見つめた。
無言とは自分が示すのではなく、相手が示す姿勢なのだと翔太は知った。
何か言ってほしい。笑ってほしい。こっちを見てほしい。応じることができないと知りつつ、望むことは虚無に等しいと思えた。七海ちゃん、ごめん。最後に会えなくてごめん。結果なんかどうでもいい。すぐに会いに行けばよかった。残念な顔を見たくなくて、足が遠退いた。その結果、生きてる間に七海ちゃんと会えなくなった。七海ちゃんの笑顔が見られなくなった。ごめん。俺が悪かった。翔太は枯れたはずの涙をとめどなく流した。
翔太は七海ちゃんが亡くなってから、月命日には墓参りに行く。
明日、七海ちゃんに会いに行こうと翔太は考えた。
翔太が部屋でごろごろしていると、母が部屋の入り口まで来て、「玄関に友達が来てるわよ」とドア越しに伝えてその場を離れた。
翔太が急いで玄関へ降りて行くと、伸一が玄関の外で待っていた。
「こんな時間にどうしたんだよ。伸一」
まだ、よそよそしい話し方になっていると翔太は感じた。伸一の表情も固い気がする。
「ちょっと、渡したい物があったから。今、ちょっといいかな」
「いいけど。まあ、入れよ」
伸一は曖昧な返事をして中へ入ってこない。翔太が外へ出た。
「これ、前に撮った写真なんだけど、持ってきた」
「写真。あっ、ありがと」
伸一が封筒から写真を取りだした。翔太は三枚の写真を手にした。
「その一枚目の写真が二人の写真なんだ。二枚目が観客の写真。三枚目がある会場の写真だ。家で写真を整理していると出てきたから持ってきた。用事はそれだけ。じゃあまたな」
伸一は単調なしゃべり方で一気に説明をして、翔太の返事も聞かずに帰った。
翔太は部屋に戻って、三枚の写真を眺めた。
一枚目は観客席から俺達を観た写真だ。
二枚目は舞台側から観客を観た写真だ。
三枚目は立ち見客の横顔を観た写真だ。
翔太は懐かしい目を向けてもう一度写真を見た。一枚目と二枚目の写真は、去年の文化祭でマンザイをしたときの写真だ。どれもこれも楽しそうな表情をしている。写真を眺めていると、こっちまで笑みがこぼれる。三枚目は場所が違った。いつの写真だろう。柱に貼り付けられたポスターに目がいった。これは、去年のマンザイ甲子園を開催したときの写真だ。どうして俺達じゃなく、観客を撮った写真なんだ。翔太は疑問に思いつつ、間違い探しクイズのようにじっと写真を見続けた。三枚目の写真の右上にふと目が引き付けられた。翔太は目を凝らしてじっくりと見定めた。
「これは、似てる。いや、似てるじゃない。神田君だ」
翔太は天井を見上げて、もう一度写真を見つめた。
あいつ、見に来てたのか。だからマンザイ甲子園のことを観客目線で助言ができたんだ。だから他の出場者と比較をして、俺達の悪いところを指摘できたのか。神田君の助言には説得力があると思っていたけど、どうりで。ちゃんと根拠がある。神田君の目で観て感じたことを言ってくれてたんだから、これ以上の助言者はいない。神田君の助言が、より説得力を増して伝わってくる。
「あいつ、いいやつだな」
翔太はつぶやいて、もう一度写真を眺めた。一枚目に写真を戻して、翔太は微笑んだ。
「楽しそうにやってんじゃん」
翔太は写真をネタ帳にはさんでお風呂に入った。
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