地球に忘れ物

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 地球最後の日。  もっと正確に言うと、地球で過ごす最後の日。  環境が劣悪になったこの星で生きていくのは難しい。  そう判断した人々は宇宙船に乗り込み、彼方へ散りじりになった。  この日を境に、地球上に人間はいなくなった。  それから1ヶ月が過ぎた。  私は宇宙船の操縦士として任務にあたっていた。  平凡な日々だった。  交代の時間がきたので、退屈な食堂へ行き、退屈なコーヒーを飲むことにする。  家族はいない。友人も、恋人も。  窓の外の暗闇を見る。それから同じくらい黒いコーヒーを見る。  今日はもう当番はない。  このまま自室に戻ろうか考えているうちに、次の当番が回ってくる。  この繰り返しだ。  船が目的の星に到着するのに、あと5年はかかる。  この船の性能ではもっと早く着いてもいいのだが、中には宇宙旅行に慣れていない一般の人間が乗っている。新たな土地に辿り着くまで、安全第一で送り届けなければならない。  地球では今日、軍による「清掃」が始まることになっている。  地上の全てを破壊し更地にする。そして、もう一度地球を生き返らせる。  でも、そんなに都合よくいくものだろうか?  宇宙船の操縦は好きじゃない。とくにこの旅客専用船の操縦は。  それでも他の船に比べたら良い方だと思う。  なかには30年もの間、船の旅を強いられる人たちもいるらしい。  早く小型機に乗りたい。日に日に思いが強まる。  この船には、緊急時のための戦闘用小型機が何機か積まれていた。  しかし命令がないと乗ることはできない。  緊急時とは、例えば……宇宙人と戦うとか?  そんなことは起きない、けれど。  目を閉じて小型機に乗る自分を想像する。  どんどん加速して、この旅客船も地球もずっとずっと後ろに置いてけぼりにするのだ。 「隣、いいかな?」  目を開けて声のする方に視線をやる。  整備士の一人が私の隣に座った。 「なんでしょうか」  私は彼の方を向いた。  あまり見ない顔だった。年齢は30歳くらいだろうか。しかし、顔に若々しさはなく疲労が滲み出ていた。  無理もない。私でさえ、ここ1ヶ月の任務で疲労が溜まっている。  いや、軍の計画が発表されてから、私たちは一度も休めていないはずだ。 「君に頼みがある」 「そう言って近づいてくる男性は多くいますが」 「この船から出たいと思っている」  乗組員のほとんどがそう思っているだろう。しかし、私は何も言わなかった。 「この船に格納されている小型機があるだろう? それに乗せてほしい」 「宇宙空間をお散歩ですか? ここからの眺めと大して変わらないと思いますが」 「君も乗りたいはずだ」 「ええ、もちろん。ですが上からの指示がないと」 「二人だけで乗りたいんだ」  残念なことに、私は男性にも興味が持てなかった。いつものように軍律を盾に断る。 「規律違反を犯すとどうなるか知っていますよね? 船から放り出されて宇宙の塵となります」 「ああ、でも急いでこの船から出ないと」  彼は焦燥に駆られていた。  言い寄ってくるいつもの男性たちとは様子が違う。 「どうしてですか」 「地球に忘れ物をしたんだ」 「その忘れ物は命をかけてまで取りに行くものなのですか」 「ああ、そうだ。君なら出来るだろ? リンダ」  疲れているはずの彼の目は挑発するように私を見ていた。  1ヶ月かけて来た道のりを3時間で戻る。この小型機と腕が立つリンダなら出来る。と、整備士の彼、一路(いちろ)は言った。  宇宙に道も何もないだろう。そう思いながら私はメーターを確認する。  3時間だと「清掃」の時間に間に合わないかもしれない。  でも、私なら2時間で行ける。    小型機で旅客船を出た後、私たちは順調に地球へと向かった。  この計画の為に造られた最新の機体。テスト飛行以来の操縦だが、調子は良さそうだ。 「俺が面倒をみてたからな」  一路は、明るさを取り戻した声で言った。  彼が忘れ物に気づいたのは、地球を発った直後だと言う。   それからの1ヶ月間は平常心でいられず、船内でも度々体調不良で仕事もままならなかったらしい。 「忘れ物見つかるといいですね」 「置いてきた場所は分かってる。大丈夫だよ」 「忘れ物って何なんです?」  私は今になって質問した。他人のプライベートに入り込むのは好きじゃない。 「それは言えない。やっと地球に戻れるんだ。君を怒らせたくないからね」  一路の表情は優しかった。  忘れ物さえしなければ、地球から離れることさえしなければ、彼は優しい人間のままでいられたのだと思う。  私たちは地球に降りた。1ヶ月ぶりの地球。 「『清掃』まであと何時間?」  私は腕時計を見た。 「1時間です」 「間に合った……」 「当然ですよ」  私は念のためガスマスクを付けた。大気中にどんな悪性な物質が含まれているか分からない。  足元には、腐敗した小動物の死骸があった。 「一路さんも付けてください」 「俺はいいよ。すぐ取って戻ってくるから」  小型機が着陸したのは軍の発着場だった。  1ヶ月前には軍の人間もそれ以外の人間も大勢いて、毎日いくつもの旅客船が飛んで行った。  今は誰もいない。  あらゆるところに仕込まれた爆薬が、「清掃」の時間が来るのを待っている。  一路は、格納庫に行ってしまった。  私はガスマスクを外し一ヶ月ぶりに煙草を吸った。  新しい星でも煙草は製造されるだろうか。  そんなことを考えながら彼を待った。    腕時計の長針が1周する前に一路は戻ってきた。  手には何も持っていない。 「お待たせ」  私は気にせずに小型機に戻った。  パスコードを打ち込み、制御盤のロックを解除する。しかし、エンジンがかからない。 「『清掃』まであと何時間?」 「あと10分」  遠くで爆発音がする。地面がかすかに揺れる。 「本当にあと10分?」  一路が聞き返す。 「エンジンさえかかれば、どんな爆発に巻き込まれようとも、絶対にここから脱出してみせます」 「分かった」  一路は、備え付けのコンピュータを取り出しシステムの解析を始めた。  揺れの大きさが増してくる。視界の端で爆炎が見える。   次の瞬間には、ここが爆発するのではないか?  機体のすぐ前にある無機物な箱。あれには爆薬が入っているのではないのか。 「これが忘れ物」  一路が画面を見たまま、手を差し出して来た。  手のひらには小さなチップが一つ。 「機密情報ですか?」 「いや、俺の記憶だよ。誕生してから整備士になる1ヶ月前までの」 「……そんなもののために地球に戻ったんですか」 「やっぱりそう思うよな。でも、記憶を失うと実感するんだ。これがないと俺は生きていけない」  一路は、私を見た。  「自分が何者か分からなくなるんだよ」  そんなの私だってそうだ。でも、一路には黙っていた。  この人にとって私の人生は関係ない。 「悪いが、最後の手段だ。俺の整備士としての記憶を今から全部、この機体にぶっ込む」 「一路さんはどうなりますか?」 「死ぬな、きっと」  目の前で爆発が起こり、熱い空気が肺に入ってくる。 「別にいいんだ。俺の記憶さえ残ってくれれば」  チップに目をやる一路。  「俺の本体はそっちかもしれないな」 「それは言い過ぎだと思います。そうでなければ、記憶を失った私の本体は、もうどこにも無いことになる」  一路はコンピュータから伸びたコードを頬に刺して、無理やり電脳に繋いだ。  その瞬間、エンジンがかかった。  私は本能的に操縦桿を握った。吹き上がる爆風の中で機体を持ち上げ、地上から離れた。   旅客船に戻る気分にはなれなかった。  大気圏を脱して、一路の手当てを行ったが無駄だった。  一路は最後まで私の言葉を聞いただろうか。聞こえていたとしたら、何て答えてくれただろうか。  誰かを求めるのは初めてで、動揺しているのが自分でも分かった。  一路の残したチップを、機内のコンピュータで見る。  生まれてから1ヶ月前までの記憶と彼は言っていたが、モニターに写し出されたのは恐らく最近のものだろう。  目線の位置が高く、聞こえてくる彼の声は、さっきまで一路から発せられていたものに近い。  妻と思われる女性が、いつでも彼の側にいて笑っていた。  やがて妻は妊娠し、子供を産んだ。小さな女の子が彼らの生活の中心になっていった。  私の知らない、家族という記憶がそこにはあった。  いつの間にか小さな女の子に自分を投影していることに気づき、私は不快になった。  チップを取り出そうとしたが、なぜか私は、隣で自分より少し冷たくなった一路の手を握った。  モニターに写った一路が「リンダ」と呼んだ。気がした。  旅客船がいる座標まで自動操縦に切り替え、私はゆっくり眠りに落ちた。      
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