灰から灰へと

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灰から灰へと

火星に生命がいることが確認されてから、彼女はずっと火星に行きたいと言っていた。 火星の英語名も、火星の直径も、その生命の詳細も知らないのに、まるで幼い子供のように目を輝かせて「絶対その火星の生命体と友達になってくる!」とはしゃいでいた。 そうして夜になると一人ベランダに出て、彼女は火星を期待に胸膨らませて見つめていた。 僕はその後ろ姿が何故か好きで、どんな面白い番組がテレビ画面に映ってようと、それを飽きずに眺めていたのを思い出す。 たまに後ろを振り返って、目が会うたびに手を振りあったことも。 そんな彼女は、今日とうとう火星に旅立つ。場所はいつも火星を見ていたベランダからで、多分別れを受け入れなければいけないのに、受け入れたくないただのワガママをしまって作り笑いを浮かべる僕は君と最後の会話を交わす。 「いつ、旅立つの?」 「もうすぐ、きっとこの会話が終わったらね」 「行かなくちゃ、いけないの?」 「うん、決めたことだし、多分、これが私の運命だから」 運命、そんな少女漫画めいた言葉を、彼女の口から聞くなんて思いもよらなかった。 「飽き性だからさ、この生活も好きだし、今もその気持ちは変わらないんだけど、やっぱり、行きたいって思いの方が強くてさ」 そうやって寂しそうに笑う彼女のことを、誰が攻めることができるのだろうか。純粋な願いを、誰が汚すことができよう。でもその純粋は善でも悪でもない無に等しい何か。だから誰かにとっては善だし、別の誰かにとっては悪だ。 僕には、悪である。 「そっか、なら、仕方ないか」 そんなことなど、一マイクロミリメートルも思っていない。もっと一緒にいたい、もっと二人で旅行に行きたい、もっとたくさん一緒に話していた。 でもどんなに僕がここで吐き出そうが、結局は無駄なのだ。さらけ出しても無駄、隠しても無駄。 さらけ出したら、惨めになるだけだ。 「結構長かったね、一緒にいたこの時間も」 だから僕は過去にしがみつく。思い出を話していれば、君といつまでも繋がっていられるような気がしたから。 「そうだね、出会って10年、付き合って、うーん、わかんないや、何回付き合ったり別れたりしたっけ」 「3回、じゃない?4回?」 本当は3回だというのなんて知っている、僕が彼女との思い出を忘れるわけない。でもここでトボけるのは、僕の最後のプライドだ。彼女に思い出を忘れないでほしい、そういう未練でもある。 「3回だよ、でもまあ、結婚までしたからさ、いいじゃん」 ああ、君のその笑顔が見れなくなるのかと思うと、僕はひどく物悲しい。今までの月日の中で、僕の唯一の自慢が、誰よりもその君の幸せそうな顔を見てきたということだ。君の笑った時の細い目も、上がった口角も、きっと誰よりもよく知っているだろう。 「楽しかったね、いろんなところに旅行も行ったし、いろんなもの食べたし」 「いろんな人に会って、いろんなことして、本当に楽しかったね」 僕の「楽しかったね」、で始まった言葉が、彼女の「楽しかったね」で締めくくられる。いつもなら無視してしまうようなそんな場面も、ついつい気になってしまう。僕の感覚は麻痺しているのかもしれない。 「一番楽しかった思い出は?」 「私?私はね、一緒に名古屋旅行行ったことかなぁ、帰りは最悪だったけど」 「いやまあ、あれはねぇ、ごめんよ悪かったって」 「大丈夫一生許さないから、火星に行っても覚えてよ」 勘弁してくれ、そう言いながら僕はつい笑ってしまう。それで君が僕を覚えていてくれるのなら、僕は一生許されなくていいのだ。 「そっちは?私といて一番楽しかったこと」 予想していた質問なのに、いざ答えようとする言葉が出ない。思い出は言葉を纏っているのに、思い出が多すぎてメモリが追いつかないのだ。 水族館でシャチを見て大はしゃぎしている僕の手を握ってくれたこと。 フランスに旅行に行ったけど旅行前に喧嘩したせいで全然楽しくなかったこと。 僕の故郷の科学博物館に一緒に行ったこと 学生時代に一緒に坂道を帰ったこと。 疎遠になって君を忘れようと頑張ったこと。 駅前でキスしたこと。 色々な思いや気持ちが巡り巡って、でも、口から出た言葉は、それをうまくまとめていたような気がした。 「一緒にご飯食べてた時かな」 「ほとんど毎日じゃん」 笑う彼女はしかし、どこかとても嬉しそうだった。僕も、やっぱり釣られて笑ってしまう。 そうしてもうすぐ来る別れを考えて、僕はきっと、大人になるということはこの決別そのものを指しているのだろうと、今になってはっきりわかった。 歳はずっと前に成人していたのに、心が、ようやく動き出したような気がした。 「そう言えばあなたに対する気持ちはずっと変わらないよ、でもそれはそういうことじゃないと思うの、私がS君やY君に抱く感情と、同じ感情」 少し思い出話をしてから、彼女がふと思い出したかのように言い出したこの言葉を、僕は少しムッとしながら聞いた。 SやYは僕らの同級生だ。彼らとはあまり連絡を取らないのだが、彼女にとって僕と彼らが一緒なはずがないのだ。 「どうして君は僕をいつも彼らと同じように扱うの?彼らはただの友達かもしれないが僕も君にとってただの友達なの?付き合った時だってあったのに本当に僕は彼らと一緒なの?」 溜まった「泥」のような言葉たちを口から吐き出す。本当はただ悔しいのだ。でも、その悔しさを彼女に知って欲しかった。 「まあ、そうかもね」 でも彼女は僕の言葉なんて意に介さないように返事した。所詮彼女にとって僕はその程度なのだろうか。 事実、火星に生命がいる言葉判明した後の彼女との日々に、僕は疎外感を感じていた。 火星の人たちとの通信を始め、そっから彼女は火星の人たちと交流するようになった。そうして交流していくうち、彼女は彼らと時間を過ごすことが多くなっていた。 家に帰らない日もあったくらいだ。 物理的に結ばれていなかったから、僕は彼女を止める事も咎めることもできない。それが悔しくて悲しくて、でもそれを言おうとすることを僕の心が許さなくて、だからもうどうにでもなってしまえと僕は日記に書き留めるのだ、一度話をしてみた時に、彼女はこう言った。 「私はただ新しいことに挑戦したいだけ、君への気持ちが上がることはないけど下がることもない、でも、今が楽しいから」 君は、もうすでに地球を離れているようだった。高度1万メートル。地球は青いのだろう。火星も、すぐ近くに見える。 僕には理解できないものなのか、男性には理解できないのか。 海老名のパーキングエリアのことをふと思い出して、君はそこにいないのに懐かしく感じる、この気持ちを女性が理解できないように。 (ところで筆者は男性と女性という二元論的分割にはひどく懐疑的である。身体的特徴が性別を固定するに足り得なくなった今、何が男と女を定義するかなどできないと思う。そうなると、身体的特徴は人種のような違いとなり、乳房があるもの、ペニスがあるもの、ないもの、膣があるもの、そういうふうな分類の仕方になっていくのだろうか。そうしてそこには言語のような偏見などがついて回るのだろうか) 言葉は理解できる、意味も理解できる、でもそれでいて何かが理解できていなかった。日本語で「精神」とか「心」とか「マインド」と訳すアレである。あれはあれだ、それ以上でもそれ以下でもない。 だから仕方なく僕はその言葉を言われた日から、さみしいけど、君を見守ることにした。 見守ることしかできないなら、見守る、最後まで。 そうして君はどんどん大人になっていた。世界の広さを知って、僕はただ井の中でゲコゲコ鳴くカエルであることも知った。 だから君は僕を無慈悲に突き放そうとした。突き放して、僕を救おうとした。 でも僕はそれすらも突き返して、最後まで君を見届けると言った。 そうしたら君は諦めて笑ったね、笑って、少し泣いていたね。 僕にはあの意味がわからなかったけど、きっと、何か大事なものを忘れていたか、それとも失ったか、そういう涙だったのかもしれない。 そうして今日という日がやってきた。 「そろそろ、行かなきゃ」 あれからどれくらい話をしただろうか。もう、一生分語り尽くしたかもしれない。 あれからどれくらい話をしただろうか。まだまだ語り足りないことがいっぱいあるのに。 灰から灰へと。そう呟いて彼女は空を見上げた。 灰から灰へと。そう呟いて僕は涙をこらえた。 「元気でね」 「じゃあね、楽しかったよ」 「元気でね」 「また、どこかで会えるかな」 「元気でね」 「すぐ会えるかもしれないし、もう会わないかもしれないし、分かんない」 「元気でね」 「そっか、じゃあね、ありがとう、幸せだったよ」 「元気でね」 「こちらこそありがとう、私も幸せだったよ」 そうして彼女は火星へと飛びだって行った。それからの日々、それは少し悲しくて、不思議で、混沌とした、大人の日々だった。
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