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第1話 ネタバレと変態
【この作品はフィクションです。作中で行われる映画のネタバレもあくまでフィクションですが、心配な方は念のため読むのをお控えください】
◇
『マーダー・オブ・オリエント・エクスプレス』。
俺の大好きな映画監督の新作だ。今週はこの映画の公開を楽しみに仕事を頑張った。
予告編の時点で漲っていた、極限の緊張感と心臓を抉るような荘厳なサウンド。
日本より一足早く劇場公開された海外のレビューでは、映画史に残るほどの記録的な高得点を叩き出している話題作だ。
この監督の作品には、毎回クライマックスに思わず顎が外れるようなどんでん返しが用意されている。近作では初めからそのどんでん返しを見抜こうと意気込んで鑑賞に臨むファンも増えてきたが、それでも最終的には皆監督の術中にハマってミスリードされ、予想外の展開に頭を撃ち抜かれるのが恒例行事となっていた。
かくいう俺もそんなファンの一人で、その心地良い敗北感を味わうために毎度劇場へ足を運んでいる。
今日、ついにこの国でも公開を迎えた新作。
金曜日ということで本来なら仕事があるのだが、俺はバッチリ三ヶ月前から有休を申請してこの日に備えていた。
座席も二日前の予約開始直後にオンラインで絶好の位置を購入済み。
睡眠も十分に取った。あとは売店でグッズを物色しながら、入場開始を待つだけ。
朝一の劇場ロビーは、熱心な映画ファンたちの喧騒に包まれていた。各々が目当ての作品の展開を予想したり、過去作の思い出を語ったりしながら、フードの魅惑的な匂いが漂うロビーで過ごしている。
よし。欲しいグッズは全部確保した。そろそろ会計を済ませて、もう一度トイレに行っておくか。
俺は両手にいくつものグッズを抱えて、売店の行列に並んだ。あ、パンフレットを頼むのも忘れないようにしないと。
それにしても、やっぱりこの上映開始前のワクワク感はたまらないな。
世の中には映画のネタバレを気にしない人が存在するらしいが、俺からしてみればそういう人種の事は全く理解ができない。
話の展開を知らないからこそ、予想するという楽しみができるし、いざ実際に鑑賞して、自分の稚拙な予想を上回る衝撃の展開に心を躍らせることができる。
事故でネタバレに触れてしまうのは仕方ないとしても、自分からネタバレを踏みに行くのは、映画という娯楽の本質をぶち壊しにする行為だ。観る者を楽しませるために苦心した作り手の努力を台無しにする行為でもあると俺は思っている。
だから、俺はネタバレ絶対NG派だ。
『マーダー・オブ・オリエント・エクスプレス』に関しても、俺はネタバレを踏まないように細心の注意を払ってきた。
簡単に情報が得られるようになった社会の代償として、求めていない情報が不意に目に付くこともある。
それを防ぐためには、極力ネットに触れないようにしたり、自分で対策を講じるしかない。
便利な時代だけど、面倒な時代でもあるよな。
列に並んだままそんなことを考えていた俺の耳に、ふと周囲のザワつきが飛び込んできた。
「ちょっとやだ、見てアレ」
「何あの恰好? コスプレ?」
「やばあ!」
そう漏らす人々の視線は、映画館の入口に向けられていた。
俺もその視線を辿る。
自動ドアから、明らかに異質な何者かが劇場ロビーに入ってきた所だった。
その足取りはとても凛々しく。
人々は驚愕と困惑から思わず道を空ける。
無理もない。
全身黒タイツの、変態としか形容できない何者かが、まるでランウェイを進むように歩いてくるのだ。
頭にはビデオカメラを模したような被り物。
「映画泥〇棒?」
脳裏に浮かんだ言葉を、近くの誰かが代弁してくれた。
そう、全身黒タイツ姿の変態版映画泥〇棒が迷いなく近付いてくるのだ。
――よりによって、俺の方へと。
え。完全にこっち来てるよな。あいつの顔のカメラレンズと思い切り目が合った気がするし。何これ、どういう状況?
俺が戸惑っている間にも、その変態はしっかりと距離を詰めてくる。
売店の列に並んでいた人々も散り散りになり、気がつけば俺はその変態と一対一で向き合っていた。
先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返るロビー。
立ち止まって微動だにせずこちらを見つめる変態は、俺と同じくらいの背格好だった。どうやら男のようだ。
しばらくの沈黙の後、膠着した空気に耐えかねた俺は、嫌々ながらもその変態に声をかけた。
「……えーっと、映画泥〇棒さん、ですか……?」
返答は無い。変態は変わらずそのレンズに俺の姿を収め続けている。
「あの、俺に何か用ですか……?」
またも返答無し。……と思った直後だった。
その変態が更に数歩足を進め、ほぼゼロ距離の位置まで来た。
眼前のカメラレンズに、俺の顔が反射している。被り物なのにレンズは本物なのか。
って、そんなことはどうでもいい。何だ、俺は今から何をされるんだ。
思わず一歩後ずさりした俺の耳元に、その変態が頭を近付けてきた。
そして短く囁く。
「犯人は、乗客全員だ」
「……はい……?」
犯人? 乗客?
「一体何の……」
言いかけて気付いた。
「――まさか……!」
変態はそこで頭を離すと、「では」と踵を返した。
そのまま再び凛々しい足取りで立ち去っていく。
「待てよ!」
俺はすかさずその背を追った。
だが、変態が自動ドアを出た辺りで俺は足を止める。
ダメだ。まだこの手に持ったグッズの会計を済ませていない。このまま外に出たら俺は万引き犯になってしまう。
俺はやむなくその変態の追跡を諦め、遠ざかっていく後ろ姿を最後まで睨み続けた。
◇
『マーダー・オブ・オリエント・エクスプレス』の上映が始まった。
だが、俺の心にもうワクワク感は残っていなかった。
『犯人は、乗客全員だ』
あの変態の言葉が脳内で繰り返し再生される。
間違いない。野郎、俺にネタバレを喰らわせやがった!
スクリーンでは、とある列車で発生した殺人事件の解決のために、老いた名探偵が捜査を進めていた。
本編が展開するにつれて少しずつ登場人物の関係が明らかになっていく。
そして終盤に差し掛かり、緊張感は極限まで高まっていくが、俺はそれをどこか冷めた目で眺めていた。
ある一人の容疑者に焦点が絞られ始めているが、これが今回のミスリードなのだろう。
きっとクライマックスで、実は乗客全員が犯人だったと明かされるはずだ。
実際、そういう視点で話を追ってみれば全ての辻褄が合うし、作品としてのインパクトを考えても十分だ。
くそ。やられた。くそ。くそっ!
何でだ。何であの変態はこんなことをしたんだ。
わざわざ俺一人だけを狙って、俺にしか聞こえないように小さな声でネタバレを囁いた。
たまたまか? 頭のおかしな変態の気まぐれに、俺は巻き込まれたのか?
『犯人が分かりました』
劇中で、探偵が乗客達に告げた。
きっと、続く言葉はこうだろう。
「『犯人は一人じゃない』」
やっぱり。
そして、探偵は更に『犯人は、貴方達全員です』と続けた。
予想通りだった。何の驚きもない。
知ってたからだ。俺は、犯人が誰なのか知っていた。だからどんなに荘厳なBGMでこのクライマックスを演出されたところで何も響かないし、感動もしない。
ネタバレを知らなければ、俺は今頃どれくらいの衝撃を味わっていたんだろう。
高鳴る鼓動、手の平に握る汗、全てのピースがハマった時の快感。
初見の映画でしか得られない体験を、俺は奪われたんだ。
沸々と怒りが込み上げてくる。本来なら興奮で握るべき拳を、今は憎悪のために握って震わせている。
許せない。
あの野郎、もし次に会うことがあれば絶対に容赦しない。
……いや。それ以前に、もう二度と会いたくない。またこんな思いをするのはごめんだ。
今回は不運だった。終わってしまったことは諦めるしかない。
せめてあの変態が、今後二度と俺の前に現れませんように。
スクリーンを流れるエンドロールを見つめながら、俺は心から祈った。
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