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4.それからの前髪
僕のアリジゴクがウスバカゲロウに変化したことに、気がついたのはお風呂の脱衣所だった。
影卵が孵化した日から、僕は洗面台の蛍光灯の光でできる僕の影を鏡の中で確認することにしていた。
――う、は。
最初は変な声がでた。
裸のままの股間がプラプラして落ち着かなかったから、一度脱いだパンツを履き直した。壊れた抜け殻が朽ちるような感触だった。
鏡を背中に振り捨てる。
バスの降車ボタンを押したように。
覚悟を持って、僕は、ドライヤー用のコンセント左にできた僕の影をみた。
羽の網目が神々しくこの世にはない白を影の中に彩色していた。羽が羽ばたくのか、影は前髪をハラハラさせて、目がくすぐったかった。
――ブラボー。
と、僕は生まれて初めての歓声をサーカス団に浴びせるように言った。
サーカスの夜にとっておくつもりだったブラボー。代わりの台詞は影のウスバカゲロウと考える。
もう一度パンツを脱いで、お風呂でシャンプーをした。
前髪以外になにも、指が触らなくて、僕は全身を震わせた。その勢いを借りて、体と髪の水気を切った。
――き、れー。
――だろ?
一番は押山さんだ。その日、おばさんはおやつにイチゴ大福を出してくれた。押山さんは口のまわりを白くさせて、ちょっぴり粉を吹きながら褒めてくれた。
――ちょ。
不思議そうに、ベッドにできた影と、僕の顔を見比べてから、押山さんは僕の前髪に触った。
――不思議。
僕は身をよじって、回避する。やめろよ。くすぐったい。そうじゃなくてもずっと、前髪、くすぐったいんだよ。
――私の卵、どうしよう。
――ウスバカゲロウの寿命は一ヶ月くらいだってさ。図書室の図鑑調べちゃった。
――あ、じゃ、それまで待つ。
――ヒキョーもの。
――いいんだ。ずっとヒキョーだったよ。私、坂本君、私ね、あっちの道別に下手じゃないんだよ。
白い粉が、影のウスバカゲロウに舞って、僕らは白いキスをした。
甘いイチゴ味のそれは、僕の前髪にからかわれる。
――坂本君、私ね、ずっと好きだったの。
押山さんがうっとりした顔でベッドを撫でている。前髪がくすぐったくって、僕はつまんでみる。
前髪に、なにかぶんにゃりしたものが掴めた気がした。
――すっげー。
――ビューティホー。
――アメージング。
――オーマイガ!!
ビューティホーから英語遊びが始まって、山田君のオーマイガで笑いが爆発した。
プールサイドでお披露目した僕の影は、網目模様を描いて飛んだ。
――すっげ、あの網目の色、なんか、すっげ。
――かっこいい。
みんな不気味がって卵捨てたくせに、ここまで我慢して育てた僕に、もうちょっと言葉があるだろう。
僕はふっと思う。そのまま言った。
――一人百円ずつね。
えー。
なんだよ、いいものみせてやっただろ。
――じゃー、もー、みせてやらねーぞ。
と、僕は野球帽を被った。前髪に遮られて、プールサイドの地面がみえにくい。
――わかったよ、後で払うからー。
みんなみたいんだ。僕らは小学生だ。みんな飛んでる未来がみたい。
――きっと払えよ。
僕は帽子をとる。
前髪がくすぐったい。僕は押山さんとキスをしたことを誰にも言わなかった。
プールサイドの羽は網目模様を羽ばたかせ続けていた。
さて。
そんな影卵のお話し。
ウスバカゲロウは一ヶ月後に綺麗に死んで消えた。
僕の影はまた、普通の影になって、押山さんの卵はというと、山田君に二千五百円で落札されて、今山田君の影には卵がある。
これがまたおかしなところにくっつけたもので、右足の踵なんだ。なにが孵化するのか楽しみだよ。
僕の前髪はというと、影のウスバカゲロウが飛ばなくなってからも、やっぱりくすぐったいんだ。
なんでか、ね。
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