2.影卵

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2.影卵

 正門側では影卵を売る男、なんか現れない。  裏門側だけで、学校のケバだった内緒ごとが蠢く。 ――なんか、変な教材みたいなの売るおじさんはいたことあるけど。 ――あー、柄本が親に内緒で買っちゃったやつ。 ――それと、ちゃちな弓矢とか、オモチャ売る人もいたことあった。 ――うん、それ、俺も買った。 ――あとは、BMWの自転車で公園の段差跳んでたお兄さんとか。 ――えー、それ知らねー。 ――へー。 ――なんだよ。正門ばっかりずるっこい。 ――だけど、影卵の方が一発で逆転じゃん。 ――なわけないだろ。 ――えー、私、そう思うけどなー。  押山さんのと、僕の赤と黒のランドセルは下駄箱の上に置いて、押山さんが下手だと言った裏門高架下までの道を、早朝の新しい喧騒に甘く包まれながら、包装の内側で僕らはふわふわと歩いた。  ランドセルは小学生の僕らにとって大事な重し、なのです、っと自由研究帳のスタンプも一個稼いじゃう。  高架下までの道にまでも、朝から元気に取っ組み合いの喧嘩をするお兄ちゃんたちや、ズルズルになった猫の死骸や、砕けたビール瓶の破片があって、僕は退屈しない。  押山さんはさすがに、でっかい声で馬乗りになった相手に目をひん剥いているお兄ちゃんの横を通る時だけ、僕のシャツの裾を握った。クっと手に伝わるように僕は加速した。朝の風が、雲をゆっくりゆっくり一日にのしていく。 ――ほら、ここの散髪屋で、右。覚えときなよ。 ――うーん。  押山さんは膝を叩いて、俯く。それ、なんだ? ――あとさ、道が下手って、言葉変だぞ。 ――へへ。  押山さんは顔を上げて、嬉しそうに笑った。次、教室のテレビがフラッシュすることがあるのなら、この笑顔でプリーズと、僕は知ってた英語でお願いした。 ――うちのクラスの子だけだねぇ。 ――まだ七時前だからなぁ。 ――幾ら持ってきた? ――買うの? ――買わないのにきたのかよ? ――だって、全員集合じゃないの? ――自由参加だろ。  クラス全員の目と口が、繋ぎ合わせればテレビに続くかもしれない緩い上り坂を集団になって駆け上っていく。  先に、影卵を売るおじさんがいた。  おじさんは、なにも着ていないように一枚の薄さで全身が顔まで真っ黒だった。 ――影男だ。  と、山田君が高架下で叫んで、朝の電車が上を通過していった。  ヒンヤリした朝の地べたに、真っ白い卵が浅い牛乳ケースみたいな容器に詰め込まれている。 ――鶏の卵じゃん。  誰かの口がそう言った。  僕じゃない。けど、助かる。 ――そんなことはないんだよ、坊や。  と、影男は真っ黒のまま、普通の人間のように語った。 ――高架下を出て、陽の当たる場所でこの卵を割るんだ、自分の影にくっつけるように、自分の影をフライパンだと思えばいい。そしたら、君の影は面白い影になるんだよ。影の卵がなにに孵化するか、君たち小学生の未来が無限大であるのと同じに、誰にもわからない無限なんだ。  一個の値段が三百円、というのが絶妙で。なんと、クラス全員お買い上げだ。売り上げが一万円と少し、仕入れの値段を引いて、影男が稼いだお金は数千円。  僕はお釣りの七百円をチャリチャリ鳴らないようにポケットに三枚バラけさせた。ズボンの右と左と、五百円玉は名札の裏。左胸がちょっと重くなったので、右の耳に指を突っ込んで音をちょっと抜いた。 ――やる? ――折角買ったし。 ――道路汚して、怒られるだけじゃない?  高架下を出て、何人かが相談している。僕は一人で影男の居た場所を振り返った。そこにはもう、誰もいなかったけど、陽が差したらわからないと、僕は背中を寒くした。  手の中の普通にみえる卵が、陰気な予言者みたいで、気持ちが悪くて、僕は学校のプールにぶん投げてやろうかと思った。  こんなの自分の影に割ってみる気には、ならなかった。  クラスの全員同じ気持ちなのか、誰も率先して影男の言ったことを実行しようとはしない。  こんなとき、特にイジメもない仲のいいクラスをうらめしく思う。  誰かに押しつけることもない。 ――最初がねー。 ――ジャンケンする? ――クジにしよっか、あみだならすぐ作れる。  クラスの意見がまとまって、あみだくじで影卵のモルモットが選ばれた。 ――嘘だろ。  僕が当たった。 ――坂本君。  クラスメイトが喜びと蔑みに跳ねるなか、押山さんだけが、気の毒そうに僕をみていた。  あ、泳げない僕が溺れながら辿り着いたプールサイドで三角座りに太陽を匿って「大丈夫?」と訊いてくれたのは、押山さん、君だったのか。  あの日から、僕はずっと「大丈夫?」の君を探していたんだ。  追いついた。並んで、歩こう。僕はもう、大丈夫。 ――いいよ、しょうがねー。割ってみる。給食の後、プールサイドで。 ――おー。 ――パンパカパーーン。 ――ヒューヒュー。  コチ、コチン。  自分のおでこで、ヒビを入れた。陰気な予言が滲んで、分けた前髪がもういっそ、逃げた。  季節外れのプールサイドで、僕の影は夏の花を探しているみたいに、微妙に揺れていた。  ヒビに指を突っ込んだ。  真っ白な殻から、真っ黒な球体がずるうっと、粘体になって、僕の影に吸い付いた。瞬間、風が吹いて、僕の前髪が影として僕の顔の輪郭をはみ出した。そこに、ポコッと。影の卵ができた。 ――言ってたとおり。  僕は卵の殻を片手で握りつぶすと、プールの水面に撒いた。  落ち葉の浮いた水面に白い点々は浮かぶことなく、沈んでいった。次の自由研究帳テーマは浮力について、卵の殻は水に浮く、でしょうか? ――ほら、みんな、やってみろよ。  僕はおどけて、笑って言った。なのに、みんなはなにかに怯えている。 ――やめとくよ。僕。  と、山田君が卵をプールに投げた。  三十二個の卵が、プールに沈んだ。 ――嘘だろ。  押山さんだけは、卵を持ったまま、立ち尽くしてた。 「大丈夫?」  と、あの日の声が僕の耳にコダマする。  あのときは大丈夫だった。けど、今、少しだけ大丈夫じゃない。なんで、僕だけ、こんなことに。  影の卵。ずっといる。前髪にくっついている。  孵化? すると、どうなるんだよ。  三十二人が卵を放って逃げ出した。  僕と押山さんは、プールサイドに、居残っていた。  押山さんの影を、僕はしゃがんで手で触った。  とても、温かかった。  そこで、あっためて欲しい。  僕の頭に、卵の声がした。じゃなけりゃ、そんな変にエロいこと、僕が思いつくはずがない。 ――押山さん。 ――みんな、酷いよね。 ――うん。 ――私は、捨ててないよ、まだ、持ってる。へへ。 ――うん、でもまだにしときなよ。 ――え?  ――なにが孵化するか、みてからにしなよ。 ――あ、うん。 ――まー凄いいい事あるかもしれないし、みんな後悔するかも。 ――ねー。  と、押山さんは平静を装っていたけど、微妙に影が揺れていた。体が震えていたのかもしれない。 ――で、さ。 ――うん。 ――押山さんの影で卵、あっためていい? ――はぁ?  押山さんの影の主が、はぁ? って言った。プールサイドに咲いた花だと、僕は思った。          
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