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3.未来のアリジゴク
――坂本、卵孵化した?
教室に入ってこう尋ねられるようになった。
――おはよう。
と、僕が挨拶を押し付けると、
――あ、おはよう。
と返してくる。その後で、僕は、
――まだ。
と、答える。
これは嘘だ。
僕の影卵はもう、孵化していた。押山さんの温もりを得て。
一週間前の、押山さんちの、押山さんの部屋で。
僕の影卵は、気味の悪い虫になった。
影でもハッキリとわかる、大きなダニみたいなモゾモゾと足を動かして、そいつは僕の前髪に貼りついていた。
赤白帽の発案者に心からのウィンクを送って、僕は感謝した。体育の時間にもなんとか影の虫はみんなにバレずに済んだから。
――きっもちわる~。
出窓のブラインドをシャッとして陽の侵入を遮ると、押山さんは言った。押山さんなりに配慮したのかもしれない。でも、僕にはわかった。影が陽の裏に姿を隠しても、耳はあるってことを。
――わかるけど、僕の身にもなってくれよな。僕はその虫、ずっと飼うんだから。
――お気の毒。私、やっぱりあの卵捨てるよ。いい? 坂本君大丈夫? 怒らない?
押山さんは部屋のカラーボックス三段目に置かれた小さな冷蔵庫を開けてみせる。転げないように紙粘土で作ったという台座に乗って、影卵は普通の卵みたいにチンマリいた。
自分専用の冷蔵庫なんか持ってるんだ。って驚いて言ったら、他人の部屋って変なものがあったりするんだよ、って押山さんは鼻の下を擦った。そうかな? 僕の部屋にある、変に思われるもの? なんだろうな。僕は思い当たらなかった。
――まぁ、も少し、待ってみない? こいつきっと幼体だよ。
――うん?
――ほら。
僕はブラインドをカシャっとやる。出窓から射した光が、影を抱き起こした。
――ひー。
押山さんは大げさにベッドの枕に顔をうずめている。
靴下の裏に毛玉をみつけて、僕はちょっと照れた。
女子の部屋に通されたのは、四年生の頃、松下さんの子猫をみせてもらって以来のことだった。
あのプールサイドでのお願いから、押山さんは誰かにバレないようにって、放課後自分の部屋で一時間、僕の影卵を温めてくれた。
二人で再放送の刑事ドラマをみたり、おばさんが出してくれたどら焼きを食べたり、僕の持ってきた少年漫画雑誌を代わりばんこに読んだりしながら、僕は前髪がこそばゆく身を捻じるのを一人の体に押し込んでいた。
――怖がらないで、よくみて。アリジゴクにそっくりだ。
――アリジゴク?
そう。
――ウスバカゲロウの幼体さ。
――チョウチョ?
――ううん、トンボさ。綺麗なトンボになる前の、蟻を罠に落として食べるやつ。こいつはきっと、このままじゃないはず。
――そっか、トンボなら許せる。直視可能。
――でも、とりあえず、今日までありがとう。
――あ、どういたしまして。なんか、楽しかった。
――変な遊びだったね。
――あの漫画、続き、気になるな。
――貸してあげるよ。
――ありがとう。
おばさん、お邪魔しました。
――坂本君、またおいでね。
――はい。
と、言い残して、僕は野球帽を目深に被る。踵をトントンさせて、一度学校の正門を抜けてから、裏門を通って、僕のうちに帰った。
なんでだか、そのルートを通らないわけにいかない気がしていた。
――あっちの道、下手だから。
下手なまんまでいいよ、押山さん。
帰り道、夕景に薄く伸びる影に、僕はしゃがんで触れてみる。
自分の前髪が遠くて、手が届かなかった。
団地の影に、僕のアリジゴクは消える。罠に落ちるみたいに。
――坂本君、孵化、した?
――まーだだよ。
せめて、ウスバカゲロウに成長するまで。
それまでは、誰にも、みられたくなかったんだ。
カッコ悪いところ。
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