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001 出会い
「しっかし、ここには何にもないんだなぁ」
和泉若菜が僕らの住むアパートに移り住むようになってから数日が経った今日——6月初旬。僕は、ようやく和泉若菜の呪縛から解き放たれ、一人優雅に散歩を楽しんでいた。
こう言ってしまうとまるで和泉さんとの生活が苦になっているように捉えられかねないのだが、決してそういうわけではない。むしろ可憐な女性とこんなにも親密な関係になってもよいのだろうかと思案してしまうほどである。
しかし、そうは言っても、そうは言ってもである。
なんというか、その、言いづらいんだけれど、ええと。
こんな時、自分の語彙力のなさに打ちひしがれる。優しい人って、やっぱり頭がいいんだなと思ってしまう。
「……なんつーか、重いんだよなぁ」
惚れてくれている気がしていた僕としては、もう少し胸がビートを刻むような展開を期待していたのだが、そんなことは全くなく、その逆でさえあった。
惚れるって、愛するって、そっちかよ。
「めっちゃお母さんなんだよなぁ」
いろいろ世話を焼いてくれること自体めったにあることではなく、幸せをかみしめながら感謝しなければならないことは重々承知の上で、それでもやっぱり申し訳なさを感じてしまう。
「てか、うちの親もだよなぁ」
普通に認めちゃったし。
『こんなかわいい子がうちに来てくれるんだったら、誠太郎でも誠一でもどっちでもいいから結婚してほしいわ。というか、うちに来ない? 確か、今身寄りがなくてうちに来ているんでしょう? なら、養子にしたげる。そうだ、それがいい』
和泉さんは完全に取り繕っていた。結婚というワードに反応して嬉々としていたが、養子と聞いてすぐにしゅんとしてしまったのを僕と兄貴はしっかりとみていた。
「まあでも、彼女よりそっちの方が一緒にいやすいし、いいんじゃない?」
兄貴による助け舟に和泉さんは喜び、「それもそうですね」と満面の笑みを浮かべた。いつも思うが、兄貴はそういうところ要領いいんだよな。
当の本人は結婚する気なんて毛頭なさそうだが。
「では、そういうことにしましょう、じゃないんだよなぁ」
まあでも、それならこれからの活動もしやすいし、それはそれでありなのかな……。
とか考えていた時だった。
「あれ、誠太郎君、だよね?」
天文台から見える景色の中で、際立って何もなかったところへ向かっていた僕としては、当然人なんかいるはずもないとばかり思っていた。
ましてや町はずれに知り合いがいるとも考えていなかった。
「……ええと、どちら様……でしょうか」
知り合いと表現したのは、単に僕の名前が呼ばれたからで、知っている人だろうなと勝手に判断したことで起こったミスでもある。
あれ、本当に誰だっけ。
「いやだなぁ。同じクラスの学級委員様ですよ? まあでも、君ほど有名人ってわけでもないからしょうがないか」
「すまん」
「いいの、いいの。私は橘六花。よろしくね」
「あれ、普段ポニーテールだよね?」
普通に知っている人だった。学校生活の中で人を判断するのは顔と髪型なのだが(制服のため、服装ではあんまり区別がつかない)、出会ってまだ2か月ほどでは、顔の記憶はほとんどない。髪型を変えられては誰が誰だかわかったもんじゃない。
「……え?」
とたん、彼女は言葉に詰まってこちらを見つめた。
そもそも僕は顔で判断することはまずない。なぜなら、顔を覚えるのはとても苦手なのだ。それを克服するべく編み出した方法は、髪型と、あと声である。
声は普段からおしゃべりすればそれなりにわかるが、なにせ普段から女性と会話することがめったにない。とすれば、髪型でしか判断できないのは自然である。
そうだよな? 自然だよな? 間違ってないよな?
「いや、ほら髪型で覚えてるから」
「……そう、なんだ」
「ああ、でもおさげもいいと思うよ。似合ってる」
「……ありがと」
……なんだろう、この気持ち。まさか、これが恋というものなのか? 胸がドキドキするってことなのか?
「でも、一つ言っとくとね」
「ん?」
「出会っていきなり髪型ほめるのはまあまあ気持ち悪いよ」
「え、そうなの?」
「知り合いでもない人に言われるのはねぇ」
「そうだったのか、すまない」
「でも、知り合い……ううん、友達ならうれしいかな」
「難しいんだな」
「女の子って、そんなものよ」
そう言った彼女の表情は、とても爽やかだった。
「勉強になる」
「いやいや、こんなこと。そうだ、どうしてこんなところにいたの?」
「あ、ええと」
本当のことを言えるような間柄ではないので、適当な嘘をつかなければならないが、しかし僕は嘘が苦手である。
「ちょっとした気分転換、かな」
「……そっか。おうちでうまくいってないとかじゃない?」
「いやいや、そんなことはないよ」
なんだかんだ言って、その日あったことを話すくらいには仲が良い。
「てっきり、同じ理由かと思ったんだけど」
「え?」
「ほら、君特進クラスの笠木君とよく話してるじゃない?」
あいつ特進クラスだったのか。知らんかったぁ。
「笠木知ってんの?」
「同じ中学だったの」
「あぁ」なるほど、つまりこの人は。
「柊さんと一緒に探偵みたいなことしてたんだよね」
「ほえぇ」やっぱり知っていた。
「だから、君もそういう感じなのかなって」
「そういうことね。でも、ご期待に沿えず申し訳ないけど、ただの散歩なんだよ」
「そっかぁ。なら、私の調べ事手伝ってよ」
「調べ事?」
「うちの高校に伝わる本、『方城七伝』は知っているよね?」
女神以外にそんなものがまだあったのか。
「いやいや、実はこの本のおかげで、女神という存在がわかったんだよ」
「……なるほど。って、橘さんよく知ってるね。もしかして」
「ああ、違うの。私はただ趣味が高じただけ。都市伝説とか、そういうのが好きなだけなんだ」
「そゆこと」
「んで、その本の中に書かれているお話のうちの一つが『ねずみ姫』」
「……どんなお話なの?」
「実物を見たことがないからうわさ程度でしかないんだけど」
そう言って語り始めたのは、僕が予想だにしないものだった。
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