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言語の不完全性
初めての方は初めまして。
いつもの方はいつもお世話になっております、佳景です。
この度は御閲覧下さいまして、ありがとうございます。
このエッセイでは、私が小説を書く中で得た気付きや試行錯誤などについて、書いて行こうと思います。
その内かなり感覚的な話も入ってくると思うので、あまり参考にはならないかも知れませんが(笑)、少しでも皆さんの創作活動のヒントになれたら幸いです。
さて、今回は第一回ということで、「言語の不完全性」について書こうと思います。
最早小説を書く以前のところから始まるのも何ですが(笑)、物語を書く上で言語の何たるかを知っておくのは大事なことだと思うので、とりあえず書かせて頂きます。
私が「言語の不完全性」について知ったのは、大学の言語学の講義でのことでした。
当時の私は短編なら何度も書いたことがありましたが(今思うとひどい出来でしたけどね(笑))、長編の小説は書き始めたばかりで、まだまだ小説の書き方がわかっておらず、「小説は言語で構成されるものだから、言語について学べば何か役に立つかも知れない」と藁をも掴む気持ちで言語学の講義を受講することにしました。
講義は言語学の変遷を辿るもので、その一部をかいつまんで説明しますと、かつては「言語名称目録説」という「言語は世界を映す鏡であり、言葉と概念が一対一対応している」という説が一般的だったのですが、現在においては「まず概念が先にあって、言語が後から付いてくるので、言語は世界の鏡ではない」という考え方の方が一般的だそうです。
言語は世界を反映している訳ではありませんし、また言語を生み出す人がその解釈をコントロールすることもできないため、あらゆる理解は非理解を含んでいるのだそうですよ。
もう少し書き手の方に馴染みのある表現で言い換えるなら、どんなに頑張って書いても表現し切れない何かは厳然としてありますし、読み手の方が必ずしも望んだ通りの解釈をして下さる訳でもありませんし、わかったつもりになっていてもそこには必ず誤解があるという感じでしょうか。
コミュニケーションの多くを言語に頼っている人間にとって、言語が不完全であることは「完全防音の部屋で隣の部屋にいる人に向かって叫ぶ」くらいに虚しいことかも知れませんが、「誰しも対象の改造の仕方が異なり、多様な物の見方ができるということは、人間の有限性・限界を示す一方で、その有限性・限界に無限の可能性を開くことでもある」ので、決して絶望する必要はないのだと思います。
くどくど小難しいことを書きましたが、「極端な話、言語は何も伝えてはくれない」と知ることで、「それでも人に何かを伝えたいなら、どんな風に書けばいいのか」を強く意識するようになったので、私にとっては凄くプラスになりました。
ただ漫然と書くのではなく、少しでも伝えたいものが伝わるように、あれこれ思い悩むことが文章上達の第一歩なのだと思います。
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