淫獄の如き竜宮城へ

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 それから数日、海は驚くくらい穏やかで、浦島の竿にもいい魚が掛かるようになった。  この間は大きな鯛がかかり、母はとても嬉しそうな顔をした。  「亀を助けたお礼かしら」なんて言う母の言葉を信じてしまうくらいだった。  亀を助けてから10日くらい過ぎた頃、浦島の船に一つの影が近づいてきた。海面から顔を出したのは、いつぞやの亀に似ていた。 「お前、まさかいつかの亀じゃないよね?」  冗談のつもりで言ったのだが、亀は頭を下げて浦島を見上げた。 「浦島様、先日はお助けくださり有り難うございます」 「うわぁ! 喋った!」  突然喋り出した亀に驚いて声を上げた浦島に、亀は申し訳なく首を少し引っ込め目尻を下げた。 「驚かせてしまい、申し訳ありません。私、竜宮城におります竜王様のお付きの亀でございます。先日の事を竜王様に申し上げましたら、是非ともお招きしてお礼をしたいと申されまして」 「竜宮城の、竜王様?」  昔、漁師だった父が言っていた。海の底には竜宮城という、世にも美しい場所があり、海を守る竜王様が住んでいると。  興味がないわけではない。いや、むしろ大ありだ。そんな天国のような場所があるのなら、そしてそこに招かれたなら、行きたいと思うのが人間だろう。 「お会いになりたいそうなのですが、一緒に来ていただけますか?」  亀の言葉に浦島は揺れる。頭にあるのは母の事だ。突然いなくなったら心配するだろう。他に身寄りもないのだ。 「あの、母が心配で……」 「ほんの少しの間です。パッと行って、戻っていらっしゃればよいのです」  そう、か。そうかもしれない。  浦島は好奇心に負けて亀の誘いに頷き、大きくなった亀の背中に乗って海の中へと潜っていった。  不思議と呼吸が出来たし、目を開けていても痛くない。初めて見る海の中は様々な色の海藻に、色とりどりの魚が泳ぐ美しい世界だった。 「綺麗です」 「竜宮城はもっと美しい場所ですよ」  亀はぐんぐんと深い場所へと潜っていき、狭い道を通り抜けていく。そうして見えた明るい場所に、それはあった。  とても美しい宮殿だった。朱色の柱には美しい彫り込みがされ、扉は深い緑色。軒にはこれまた美しい花の彫り込みがされた灯籠が下がり、優しく光っている。 「ここが竜宮城ですよ」 「すごい、綺麗だ……」 「さぁ、まずはこちらに。お風呂とお着替えを用意しておりますよ」  促されるまま浦島はそのお屋敷へと入っていく。そうして迎えてくれる人もまた、美しい人ばかりだ。 「ここからお風呂までは、鯛がお連れいたします。湯浴みのお手伝いもいたしますので」 「鯛です。よろしくお願いしますね、浦島様」  そう言って丁寧に頭を下げた人は、全てが綺麗な人だった。  透き通るような白い肌に、目元に朱を差している。髪も白いが、毛先だけは薄らと朱色になっていた。その髪は背まで伸びている。  赤と白の着物は裾がひらひらとして、まるでヒレのようにも見えた。  鯛に連れられて高床の廊下を歩いていく。この美しい場所を薄汚れた自分が歩くのは申し訳なく、いたたまれなくて俯いてしまう。その様子に気づいたのか、鯛が心配そうに声をかけてきた。 「どうかなさいましたか、浦島様」 「あっ、いえ! とても場違いに思えてしまって」  素直に伝えると、鯛は袖で口元を隠して優雅に笑った。 「磨けばとてもお美しく、愛らしくなりますとも」 「そんなこと。やせっぽっちの子供顔で、恥ずかしいばかりです」 「それがまた愛らしいというのに、人間は見る目がございませんね。竜王様はきっと、お気に召しますよ」 「? 有難うございます」  「お気に召しますよ」という言葉に少し引っかかりを感じたが、社交辞令だろうと流した。なぜなら丁度湯殿へと到着したのだから。  海の中で湯に浸かるというのは妙な感じだが、不思議と地上で生活しているのとあまり変わらない感じがする。普通に服を脱ぎ、鯛に髪から体から綺麗に磨かれて湯船に浸かった。心地よい温度で力が抜け、ホクホクと体が温まりよい気分だ。  上がると、海藻から作られた軟膏だと言われて、ぬるりとした物を体にすり込まれる。すこしして洗い流すと、肌は艶々として瑞々しく、自分の肌とは思えないものになった。 「凄い!」 「本当にお美しくなりましたよ、浦島様。さぁ、こちらをお召しになってください」  言われて出された着物は元のボロではなく、美しい錦の着物だった。肌触りがよく、するりと馴染む。  だがこんな上等な着物、着慣れない。おっかなびっくりな浦島は遠慮したが、鯛は言葉巧みに浦島に着物を着せてしまった。  衣装が変わると心持ちまで変わるのかもしれない。自信なげにおっかなびっくりだった浦島は、顔を上げて鯛の後をついていくことができた。  そうして通されたのは、金屏風を背にした宴の会場。一段高くなった所には脚のついた赤漆の美しいの盆が二つ用意されている。だがまだ、そこに料理などはない。代わりに赤漆に金の高蒔絵の杯と、白い瓢箪の形をした徳利を持つ男、そして小柄な少年が待っていた。  小柄な少年はとても美しい顔立ちをしている。小柄な体に小ぶりな頭、大きく愛らしい目に、透き通るような白い肌をしている。髪は鷹の羽のような濃い茶色だ。  もう一人の男は少し異様に感じた。  青と黒の縞々の髪は長く、それを三つ編みにし、瞳は金色で縦に黒目がある。全体的に背が高くひょろ長く、手足が長い男だ。着物まで濃い青を基調としているため、なんだか寒々しく思えた。 「浦島様、ただ今宴の準備を行っておりますが、まだ少しお時間を頂きたいのです。そこで、我ら三人で余興を致しますので、お酒を飲みながらゆるりと過ごして下さいませ」 「あっ、有り難うございます。あの、こちらの二人は……」  鯛に恐る恐る問うと、鯛は「あぁ」と呟いて、まずは綺麗な少年を浦島の側へと呼んだ。 「こちらは平目でございます」  紹介された平目は上目遣いに浦島を見て、ちょこんと頭を下げる。だが、声を出すことはなかった。 「滅多に喋らないのと、あまり表情を変えないのが困った所ですが、芸事はとても上手なのですよ」 「あの、よろしくお願いします」  浦島が丁寧に頭を下げると、平目も同じように頭を下げた。 「さて、もう一人は……」 「海蛇だよ、浦島殿」  やけにひょろ長い男が近づいてきて握手を求める。が、海蛇と聞いて浦島は手を引っ込めてしまった。  仕掛けに手を入れた途端、海蛇が紛れていて噛まれて死ぬ漁師もいる。その為、漁師の中では海蛇は嫌われ者だ。  それを知っているのか、海蛇は少々困った顔をしてしまう。蛇の時は分からない感情が、人の形だとよく分かる。 「嫌われているのは知っているが、今少し我慢しておくれ。裏では人が大忙し。蛸も烏賊も全部の足を目一杯使っているほどさ。だが、俺は仲間内でも少し嫌われていてね、裏にいては仕事にならない。お酌くらいは出来るだろうと、鯛に引っ張られてきたのさ」 「なんならこの男を尻に敷いて余興をご覧になりますか? 嫌いな者を足蹴にするのは愉快な事ですよ」 「そんな事しませんよ!」 「鯛、お前のその性格立派だよな。俺、お前の方が怖いと思う」  コロコロと鈴を転がすような綺麗な声でとんでもない毒を吐く鯛に、浦島は驚き海蛇は苦い顔をする。そういう感情の分かる彼は、思っていたよりも馴染めそうだった。  浦島は用意された席の左側に座り、小鉢の料理数種を並べてお酒を頂いた。お酒なんて、滅多な事では飲めない浦島は一杯空ける前に頬がほんのりと赤くなっている。 「もしかして、浦島殿は酒は弱いのかな?」  お酌をしてくれる海蛇に問われ、浦島は素直に頷いた。 「飲み慣れていなくて」 「おぉ、そうか。予想通り初な」 「え?」 「愛らしいお人だと思いましてな」 「もう、鯛さんにも同じ事を言われましたが、俺はこれでも28歳ですよ。もうおじさんなんです」 「28!」  驚いた海蛇を、浦島はムスッと睨む。だがどうしても、子供が拗ねているくらいにしか見えなかった。 「見えませんよね、言われますもん」 「いやぁ、すまない。若く見えるものだから、つい」 「いいですよ、慣れてますから」  拗ねたと言わんばかりに言えば、海蛇はお酒を注いでご機嫌取り。もう慣れてしまっている浦島もあまり怒る気にはならず、笑ってお酒を飲んだ。  目の前では平目の笛の音に合わせ、鯛が美しい舞いを披露している。元々綺麗な人が舞い踊れば、更に美しさが増すというものだ。  その姿を隣で見る海蛇の顔はどこか真剣に感じる。そしてこの顔を、浦島はよく知っていた。 「海蛇さんは、鯛さんがお好きなのですね」  小さな声で問いかければ、海蛇は少し驚いた顔をした後で苦笑した。 「あの性格の悪さと気の強さを含めて、いい男だと思っているよ」 「実るといいですね」 「どうだか。とっくに気づいているだろうが、知った上で振り回している感じだ。美しい者には毒があるなどと言うが、あいつは性格に毒があるな」 「あはは」  こんな話をしているのを知ってか知らずか、鯛がこちらへと流し目をくれ、ふっと不敵に笑うのだった。
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