第2話. 画家と家族

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 どのくらいそうしていただろう。私はまた街灯の下に立っていた。見るとその店のガラス越しに絵が飾られていた。  老夫婦が私を見つめていた。それは絵であったが、その夫婦は確かにそこに存在して、私に対して優しく微笑みかけてくれた。私はわずかに正気を取り戻した。その絵はどことなく私のタッチに似ていたが、私では到底描けない人間らしさにあふれていた。  その店は絵画を取り扱う店のようだったが、私の知らない場所だった。この30年のうちに新しくできたのだろう。他人の絵などもう見たくない―そう思っていたはずなのに、不思議と私は店の戸に手をかけていた。  戸を開けると優しい鈴の音が店内に響いた。店の中は外の街灯に比べて薄暗い黄色で、わずかに漂う絵の具の匂いがどこか懐かしかった。この時間でも店を開いていることには驚いたが、開いているというより開けているだけで、客はおろか店主もいなかった。 「ちょっと絵を見せてもらってもいいですか」  静まりかえった店内に声が反射して、いやにはっきり聞こえた。返事はなかったが、私は勝手に壁に飾られた絵を眺め始めていた。  店の外は今や賑わいの絶頂にあるはずだったが、店内は私の靴音と唾を飲み込む音以外しない。ここだけ時間の流れが遅くなっているかのように、埃がゆっくりと落ちていくのさえ見えた。  反して、私の心臓は段々と高鳴りを増していった。それは30年前に引き離された魂の欠片に、体が吸い寄せられていくようだった。  そしてその予感は的中した。 「いい絵でしょう?」  背後から声がした。振り返ると、すぐ後ろに私と同じくらいの年代の女性が立っていた。自分の絵を見つけた興奮で、私は会話などしているどころではなく、ほとんど言葉にもなっていないような声を出していたと思う。  そんな私のようすをちっとも可笑しがることもなく、静かに女性は言った。 「その絵は有名な画家の作品ではないのですが、私の個人的な好みで飾らせていただいているんです」  その言葉は、濁った池の水が浄化されていくように、私の心に深く重く浸透していった。きっと私は、ただ誰かにそう言って貰いたかったがために、長い間描き続けてきたのだ―と、この時思った。 「本当に、本当にそう思いますか?」  私は見知らぬ人の前で、恥もなく泣いていた。女性は構わず話し続けていた。 「ええ、もちろんです。この人のほかの作品は、どちらかというと風景や物を描いたものがほとんどで、まれに人が描かれていたとしても、あくまで風景の一部―そんなものが多くて。ですが、この絵は彼にしては珍しく人そのものが描かれています。どうです?この絵の中の母娘はまるでこちらのことを見ているようでしょう?それも愛おしいものを見るような、温かい瞳です。きっとこの絵を描いていた画家も、絵の中の妻と娘のことを同じように見つめ返していたのだと思います」
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