アウトボールを追いかけて 第1章 フェンスを越えて

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第一章 フェンスを越えて  1974年 春                  1 「うわっ、まただ」  真正面から迫ってくる砂ぼこりをもろに被りそうになり、すぐさま袖で顔を覆った。  息を止めている耳元で風音が低いうなり声をあげてかすめていく。  目蓋を閉じるのが一瞬遅かったようで、左目に違和感を感じた。目をしょぼつかせたまま尻をついて頭の埃を払う。 「ちっ、せっかく…」家を出る前にドライヤーをかけてきた髪はすでに逆立っていた。  再び砂ぼこりが色の剥げた滑り台や錆び臭い鉄棒の間を抜けて襲ってくる。風を背にするように向きを変えると、ピッチャーマウンド辺りで巻き上がった埃が小さな渦を作っていた。  そんな、風のちょっかいを座ったままいくつかやり過ごす。ブランコがあおられているのだろう、ガチャガチャと耳障りな金属音が聴こえる。後ろの方からは何かがぶつかる低い音がした。  その日は四月にしては珍しく午前中から二十度を越え、生暖かい南風が子供達に何かをけしかけるように吹き荒れていた。  昨夜見た天気予報では、いい天気だと言っていたはずである。 「ヤン坊マー坊の野郎、嘘つきやがったな」  もっとも、青空にはかわりはないのだが、ちょっとばかり朝から気まぐれな天候だった。早朝降った通り雨が残していった水溜まりは、風が吹くたびに細かい波紋を浮かび上がらせていた。  ようやく立ち上がって辺りを窺うと、木目の浮かんだブランコの座板がくねくねとツイスト踊りのように揺れ、電柱の前ではポリバケツが嘲笑うように口を大きく開けて転がっていた。 「ったくよー」文句を吐きながら大げさに砂ぼこりを振り払う。  早くキャッチボールを始めたいのだが、何度もグラウンド整備を途中で邪魔され、苛立ってくる。  風が吹いてきた方角に目をやると、丘の上の横浜根岸米軍住宅が何事もなかったかのように横たわっていた。ショットガンハウスの壁は晴れ渡った日差しの反射で白く輝き、庭に広がる黄緑の芝は柔らかい毛並みの絨毯のように見える。余裕綽々なその姿がちょっと鼻につく。片や周辺の民家では、くすんだ色合いの板壁と鈍色のトタン屋根とが重々しく並び、その対比が一層際だって見えた。  再び風が吹き抜ける。小坂晃二はシャツの胸元に鼻から下を埋めたまま横を向いた。  誰かが捨てたガムの銀紙が舞い上がり、キラッと光って白線上を一塁方向に飛んでいく。そして周りを囲まれ行き場を失った風は、広場の古い建物に吸い込まれるように消えていった。  錆びた有刺鉄線で囲われた米軍施設に接した小さな広場。  晃二達は三方に分かれ、デコボコになった地面の薄れた白線を蝋石でなぞっていた。  ホームベースの内側を塗りつぶしている横顔は真剣そのもので、なんだか一人黙々と地面とにらめっこでもしているかのように見える。薄い眉を寄せ、二重の目は一点を見つめたまま表情を変えず、ガムを噛んでいる小さく細い顎だけがわずかに動いていた。赤いチェック柄のシャツの袖にはピーナツバターがこびり付き、その先の華奢な手首には絆創膏が2つ貼られている。膝を抱えるようにしゃがんだ、半ズボンの後ろ、ベルトとシャツの間に差し込んだ黄色い野球帽が、風が吹くと尻尾のように揺れた。  突然、輪郭の濃い影がホームベースに覆いかぶさり、晃二は手の動きを止めた。手元のカリカリという音が止むと、その分風の音が増したように感じる。 「晃二さぁ。ゆうべ考えたんだけどな」  一塁ベースから戻ってきたウメッチが屈んで顔を近づけてきた。 「なんだよ。またくだらねぇアイデアでも浮かんだのかよ」  晃二は立て膝をつき、目の前のコールテン地のズボンを見ながら言う。そこには白い指の跡が三本、先日見たスパイ手帳の暗号みたいについていた。 「そんなこと言うなよ、今度のはすごいって」 「今度のは、今度のはって、いつもじゃねぇかよ」 「……じゃあいいよ」  ウメッチは舌打ちして、落書きでも消すかのように地面の砂を苛立たしげにはらった。  その瞬間、彼の身体からフッと整髪料の匂いがした。どうやらまた父親のバイタリスを拝借してつけているらしい。休日になるとウメッチは少し長めの髪を後ろに撫でつけ、野球をするにも格好つけて来た。  フフッ。晃二は小さく笑って、ひょろ長い身体を縮こませ、ウンコ座りしているウメッチを横目でしげしげと眺めた。  いつものように黒のボーリングシャツの胸ポケットからは、鼈甲もどきの櫛が顔を覗かせている。少し丸い鼻とくっきりした二重まぶたが、どこかインド人っぽい。父親が基地でミリタリーポリスをしているので、どこか外国の血が混ざっているんじゃないか、とすら思ったことがある。そのせいなのか、キザにふるまう努力の甲斐あってなのか分からないが、クラスの女子の人気はそこそこあった。背は高いくせに猫背なので、いつも覗き込むように話しかけ、耳元でくだらない冗談を言う。 「なにこそこそ話してんや」  三塁とホームの中間あたりで荒ケンがニヤニヤしている。  晃二は立ち上がり、わざとらしく大きく伸びをした。 「ウメッチがさぁ。すんげぇアイデア思いついたんだとさ」  大げさにそう言って、小石を投げてふてくされているウメッチを顎で指す。  荒ケンは少し眉を上げ、やれやれといった表情でゆっくり近づいてきた。  ウメッチは小さく微笑み、すっくと立ち上がるとズボンの裾をパンパン叩いた。彼の口元は早く話をしたくてウズウズしているように見えた。それに反して荒ケンの歩き方は緩慢で、余裕すら感じる。  いつものメンバーである晃二、ウメッチこと梅田弘、それに荒木健、通称荒ケンの三人はホームベースを囲む形でしゃがんだ。 「……で、なんや。そのアイデアって」  そう言って晃二の方を不審そうな面もちで一瞥した。  荒ケンの喋り方は関西弁が若干混じる。そのため、ぶっきらぼうできつく聞こえるのは毎度のことだが、今の言葉の裏には戸惑いが見え隠れしていた。きっとこのままやり過ごして練習を始めるか、それともちゃんと最後まで話を聞いてやるか迷っているのだろう。  ウメッチがわざとらしく咳払いすると、荒ケンは額に皺をよせて深く息を吐いた。  荒ケンは体格がそこそこの割には喧嘩が強かった。スポーツ刈りだった髪はボサボサに伸び、狭い額の中央にある横長の傷跡と小さな目が特徴だったので、晃二が描く似顔絵ではいつも猿になっていた。ジーパン以外の姿を見たことがなく、それもすり切れてボロボロだった。爪を噛むのが癖で、どの爪先もジーパンのようにささくれている。クラスの番長的存在で、仁義や任侠の世界が好きだったが、気性は見た目ほど荒くなく、普段はどちらかというと寡黙な方である。 「んー。前から考えてたんだけどさぁ」  スニーカーの親指つけ根あたりのすり切れた穴をいじりながらウメッチは話し出した。そのRマークのついたスニーカーは、晃二と同じ有名メーカーの、もちろんバッタもんである。 「金儲けしねぇか」 「なに?」「かねもーけ?」  単刀直入というか、いきなりそう言われた二人は顔をしかめて声高に言った。 「あのさぁ。ナイスアイデアだと思うんだよな」 「……」  下を向いて含み笑いしだした二人を見て、ウメッチは一旦話を止めた。そして白く塗りつぶされたホームベースの端を貧乏揺すりのように蝋石でなぞり始めた。晃二は金儲けという言葉の意味をなぞるように考えてみたが、いまいちピンとこなかった。テレビドラマや映画の世界がぼやけたイメージとして浮かぶのがせいぜいである。ましてやウメッチの口から出ると、犯罪やら横領の臭いがプンプンしてくる。  また風が吹き抜ける。凹凸が激しく、傾斜になったコンクリートすれすれに、小さな渦が一瞬姿を見せたかと思ったらすぐに消えた。何か考えているのか、話し出すタイミングをうかがっているのか、三人とも斜め下を向いて黙ってしまった。  どこか近くの枝で鳥のさえずりが聞こえる。辺りにはのんびりとした静けさが朝霧のように垂れこめていた。日曜の午前中という、正しい曜日の正しい時間帯の在り方である。  その静寂の向こうから乾いたエンジン音が近づいて来た。3人は示し合わせたように振り返り、脇道を通り抜けていくホンダのスーパーカブを目で追った。知り合いでもある近所の新聞屋のおっちゃんに手を振って見送った後、荒ケンが何気なさそうに口を開いた。「そんで?」  晃二が視線を戻すと、仕方ないだろとでも言いたげに荒ケンが苦笑いしていた。  その一言を待っていたウメッチは笑顔を取り戻し、続きを話し出した。 「この建物によくアウトボールが飛び込むじゃん。それって結構たまっていると思うんだ。それをさぁ、忍び込んで取ってきてみんなに売るんだよ」  一旦、二人の顔を覗き込むように見る。 「新しいL球なら百円、古いのは五十円。あとB球とかC球だったら…六十円かな」  二人は顔を見合わせてまた黙ってしまった。  晃二達がよく集まって遊ぶこの広場は町内会が管理し、少しばかりの遊具と狭い空き地ではあったが、ちびっ子広場と呼ばれて子供たちに親しまれていた。以前は駐車場として利用されていたが、下町であるが故、車を持っている家庭が少なく、現在は子供たちの遊び場として開放されていた。しかし、元々は米軍に接収された古い建物の裏にポッカリ残った空き地のようなところだったため、野球をするにはあまり適していなかった。一塁と二塁のすぐ後ろに建物が位置する横長な空間のため、外野はレフトしかなく、グランドと呼べるほどの代物ではなかった。もちろん通常のプレイやルールも通用しない。  そこで編みだしたのが変則ルールである。ライト側にフライが飛んだ場合、壁に跳ね返って直接取ればアウト、取れなければシングルヒットと決めたのだ。その際、ランナーは球の反射の仕方を見て判断するのだが、飛び出しすぎると帰塁できずにゲッツーとなってしまう。反射球を捕られて慌ててランナーが戻る姿が面白く、みんなよく態とライトを狙って打っていた。  だが、もしボールが窓から軍の建物に入ってしまったら、たとえそれがどんなにいいアタリだったとしてもアウトとなるのだった。この入ったが最後、取りにいけないボールのことを、みんなアウトボールと呼んでいたのである。  確かに、これまでに晃二達が入れたアウトボールだけでも十個近くはあったし、他の子供達が入れた分まで数えたら二、三十個にはなるだろう。ウメッチの言う値段で売れば二千円くらいにはなるかもしれなかった。今まで諦めていたアウトボールが取り戻せて、しかも金儲けまでできるとなると悪い話じゃない。これは名案かも。と思った晃二だが、賛同しながらも基本的な疑問を口にした。 「なかなかいい案じゃん。でも、忍び込むって…どうやって?」  荒ケンも同じ疑問の目でウメッチを見つめた。  少しの間があってから咳払いして声高に帰ってきた返事は「そう、それなんだよな、問題は」であった。 「えっ」という声を発した後に晃二は聞き返した。 「問題って……。もしかして、どうやってってことは考えてないの?」  ウメッチは、さも当たり前のことかのようにうなずき、「その通り」と言って笑った。  どうやら本当にその先については何も考えていないようである。  絶句している二人を尻目に「どしたらよかんべぇ」と、おどけて歌っている姿を見て、腹立たしさよりもバカバカしさが込み上げてきた。 「それじゃしょうがねぇだろう」 「ったく、ちゃんと考えてから言えよ」  膨らんだ期待に水を差された荒ケンはウメッチの野球帽のツバを叩いた。その帽子はジャイアンツはジャイアンツでも、サンフランシスコ・ジャイアンツのものだった。ほとんどの子供が通学用の黄色い帽子にYGとマークの入った読売ジャイアンツのものをかぶっている中、彼だけが親のつてで手に入れた本場もんを持っていたのである。そのせいか、彼がエラーしたり調子こいたりすると、みんなはよく妬みを込めてツバを叩いた。 「……でも、なんとかできねぇかなー」  誰にともなく晃二は呟き、空を見上げた。  ちょうど一ヶ月ほど前、晃二は新品ボールを自らのバットで放り込んでしまったのだった。それは親から誕生日にグローブと一緒に貰ったL球だったので、イニシャルのA・Kを書き入れ大切に扱っていたものなのだ。未練たらしく呟くのも仕方ない。 「今回のアイディアはまぁまぁやけど、なぁ」  荒ケンが上目遣いで同意を求める。 「そうだな。具体的な方法があれば別だけど」 「だからさぁ、それをさぁ、お二人に考えて欲しいんですよー」  いつもの、困った時に出る猫なで声で言うと、顔をグッと縮こめた。  クシャおじさんの顔真似のつもりなんだろうが、いちいち付き合ってはいられない。 「うーん、2階の窓は梯子でも届かないからロープかけるわけにもいかないし。かといって、他の道具を使ってもあの高さじゃ無理っぽいよなー」 「それに夜中ならまだしも、真っ昼間ならすぐ捕まるで」 「夜は怖いから止めだけど、日中でも誰にも見つからずに侵入する方法があるはずだよ」  ウメッチはすがるような目で二人を交互に見る。  晃二は溜息混じりに「そうだなぁ」と答えるのが精一杯だった。  三人ともまた黙り込んでしまった。今度は斜め上を睨むような格好で。 「まぁええよ、後で考えようや」  荒ケンはそう言って勢いよく立ち上がり、二、三歩助走をつけて高くボールを投げた。  見上げた上空は、絵の具を水に溶いたように澄み渡ったブルーをバックに、立体感のある雲が左から右へと足早に流れている。頂点に達したボールは再び我々の世界に戻ってきて、荒ケンのミットに収まった。パンッと小気味よい音が辺りに響いた。 「よし。練習始めよぅぜ」  晃二がグローブを叩きながらせっつくと、ウメッチはぶつぶつ文句を言いながら重い腰を上げた。 「まぁ、しょうがねぇよ」と言いつつ、晃二もちょっと心残りではあった。  ボールを軽く投げ合いながら後ろ歩きでだんだんと距離を開けていく。それなりの間隔になると、山なりのボールから徐々に力を入れてスピードを増していく。単純な肩ならしのキャッチボールでも楽しく、いつもなら声を出しながら盛り上げていくのだが、どこか三人は集中力を欠いたような動きだった。  ひと通りウォーミングアップして、ノックしながらの守備練習に移った頃、近所の渡瀬努と森田進がやって来た。  渡瀬はどこのクラスにも一人はいる、何をやらせても鈍くさくて、いつも味噌っかす扱いされる奴だった。デブな上、一直線の前髪と分厚い眼鏡がより一層ダサさを際だたせている。クラス中の奴にからかわれていたが、その天然ボケの性格からか嫌われることはなかった。一年中、それこそ雪の日でも履いている半ズボンは、いつ弾けてもおかしくないくらいパンパンだった。いつの間にかついたあだ名がブースケ。まさに彼の風貌にぴったりであった。  片や森田はその名前からモレタになり、今ではモレと呼ばれている。  背が低く、ちょこまかしているモレは、機動力あふれる情報屋でもあった。どこで仕入れたか分からない噂や裏情報を頼んでもいないのにみんなに伝えるのだ。声が甲高い上、話を必要以上に誇張するので、時々鬱陶しがられることもある。フライパンの大きさほどあるニコニコマークの描かれたTシャツを今日も着ていたが、生地が伸びきっていて情けない笑顔に見える。ざんばら髪で前歯が出ている容姿は小型版ネズミ男といったところか。  この二人はよく連んでいるわりにしょっちゅう口喧嘩をする。しかしほとんどが目クソ鼻クソ的なくだらない内容だったので、言い争いが始まってもみんな取り合わなかった。  二人の肩慣らしも終わり、そろそろ全体の守備練習でもしようかというときである。 「ちょっと休むか」  荒ケンが珍しく自分から休憩を取ろうと言った。 「もうバテたのかよ」モレがからかうが、気にも止めずにミットを外す。 「ちょいと喉が渇いちまってな」そう言い残して、広場前の橋本米店に向かって歩き出す。 「ちっ、しゃあねぇな」顔を見合わせ、みんなも後に続く。  言いだしっぺに従うのはやぶさかでない。ただ、賛同しても一応文句を口にするのが常である。  橋本は米屋ではあるが近所のよろず屋でもあったので、お菓子やパンも取り揃えている。とは言っても駄菓子屋と違い、煎餅などの袋菓子ばかりなので、買うのはもっぱらアイスかジュースばかりである。  しばらくして五人はミリンダをラッパ飲みしながら店から出てきた。 「カァーッ。やっぱ練習の後のジュースはうめぇな」  ウメッチはオレンジ色の口元を拭って高笑いした。 「ほんと、ほんと」  一気に半分ほど飲んだブースケが調子良く頷くと、 「このタコ。お前、まだ肩慣らししかやってないじゃんか」  モレのつっこみで、さっそく言い合いが始まりそうになる。それを察したのか、別の理由か、荒ケンは木陰でちょいと小休止やな、と誰にともなく呟いて歩き出した。  太陽は真上近くにまで達していた。初夏のような暑さでシャツも汗ばんでいる。しかし荒ケンが休もうと言ったのは、暑かったり喉が渇いたりしたからではないと晃二は察していた。  広場の端にある植え込みに行き、ちょうど日陰になった花壇の柵に五人は腰掛ける。相変わらず、時折強い風が木々を揺らしていたが、そんなことは一向に気にせず荒ケンは話を切り出した。 「さっきの話だけど、やってみるか」 ― やはり、思っていた通りだ ―  荒ケンは自分同様に気になっているに違いない。あとは何時口に出すか、だけだと思っていた。  二人は黙って肯いたが、「何、さっきの話って?」と話が解らず、いぶかしむ二人組に、 「オレの提案なんだけどさ、実は前々から考えていたんだけど…」  ウメッチはまたいつもの勝ち誇った顔つきで、もったい振るように説明をし始めた。  荒ケンは大きく息を吐くと、柵を背にして座り込み、頭の後ろで手を組んで目を閉じた。熱弁が終わるまで待つしかなさそうである。晃二は改めてそびえ立つ要塞の隅々に視線を這わせた。  蔦の絡まった窓、シミが浮き上がった壁面、錆びたシャッター、壊れた雨樋。  手がかり、足がかりとなりそうな物は何ひとつ見当たらない。割れている窓は数多いが、高さは背丈の3倍以上ありそうだ。 ― 果たして侵入することなんかできるのあろうか ―  晃二はいくら視線を這わせても〔かなりの難題である〕という答えにしかたどり着けなかった。 「おもしれぇじゃん。やろーぜ」  内容を聞き終え、二人は同時に立ち上がり目を輝かせた。  モレは飲み終えた瓶を叩きながら奇声を上げ、ブースケは「オレも取り返すぞ」と、興奮したときにでる、オレのオの方にアクセントがくる喋り方で身を乗り出した。 「そうだろ、取り返してやろうぜ」  ウメッチは二人の反応を見て、ニンマリとしている。荒ケンは徐に上半身を起こし、晃二を見て眉間に皺を寄せた。 ― この二人が加わったとして、戦力として期待できるのであろうか ―  彼の表情からは、どうやら同じ疑問であることが読み取れた。  「でもさぁ、……おっかなくねぇか」  今盛り上がっていたはずのブースケが急に弱々しい声を出した。 「なんだよ、またビビリ病かよ。しらけるなぁ」  突然水を差され、モレは吐き捨てるようなため息をついた。 「だってさぁ、戦争中の亡霊がいるかもしんないじゃん。それにさ、今じゃアメリカのもんだろぅ。見つかったら牢屋行きかもよ」 「牢屋って…おまえなぁ…」  ウメッチはうんざりした顔でぼやく。 「亡霊なんかいるわけねぇだろ。それに、ちゃんと計画すりゃ捕まんねぇよ。な、晃二」 「誰も入ったことないし、確かに捕まったら大変かもしんないけど…。まぁ、計画してみるだけの価値はあると思うよ」  確かに戦時中の妙な噂話を聞いたことがあったし、米軍施設への不法侵入になるので危ない行動でもある。だが常にマイナス思考のブースケに関わっていても仕方ない。  荒ケンは「誰もお前さんに一緒に来いなんて言ってねぇよ」とあきれ顔で言った。実際、ブースケがいない方が上手くことが運びそうである。 「そんなぁ。仲間はずれにしないでよ」 「だったら、文句言うな!」  みんなハモるように一喝した。                  2  子供たちに通称をおばけ観覧席と呼ばれているその古びた建物は、1866年(慶応2年)に建てられた日本初の洋式競馬場の1等スタンドにその後になって併設されたものだった。子供たちの目にはオカルトチックに映っていた建造物ではあるが、年配者には、当時は東洋一の規模を誇る日本屈指の近代建築物であったと知られている。  1860年代、開港後の文明開化の波と共に押し寄せた西洋文化の一つとして、洋式競馬はここ横浜の根岸競馬場を拠点に始まった。  元々、居留外国人の娯楽だった競馬は、やがて日本人も加わり、社交場として賑わうようになっていったのである。1880年(明治13年)に結成された日本レースクラブの正会員には伊藤博文・井上馨といった明治新政府の重鎮も名を連ていたほどだった。  その後、関東大震災でスタンドに亀裂が生じ、観客席が火事で焼けるという被害を被ったものの昭和に入って改築され、1930年(昭和5年)完成した新しい馬見所(スタンド)は、東京の丸ビルやホテルニューグランドの設計で有名なJHモーガンの手によって、鉄骨鉄筋コンクリートの重厚な意匠の近代建築として生まれ変わったのだった。  当時の写真を見る限りでは、貴賓室などの3つの塔や、張り出た薄い屋根構造、支柱が少ないオープンな空間など、緻密な設計力を集結しつつ、美にこだわったデザインであることが伺える。  しかし現在の観覧席が醸し出す雰囲気からはかつての栄光は見る影もない。よほど多くの歴史的苦難や変貌せざるを得ない理由があったに違いないと想像させられる。  昭和6年の満州事変、12年の日中戦争では賑わいを見せていたものの、昭和17年。太平洋戦争が始まると、それまで76年間行われていた洋式競馬は幕を下ろし、付属施設には敵国捕虜収容所が設けられ、翌年、横須賀沖が見渡せるという立地条件から旧帝国海軍が接収し、印刷や通信の施設として利用されるに至ったのである。  西側には横浜の中心地を、東側には東京湾の海を一望できる丘の上に優々と鎮座していた建物は、戦争を機に本来の役割を奪われ、その姿を変えていくようになる。特にこの併設された2等建物(馬見所)、厩舎、倉庫、払戻金交付所などは、艦艇用の暗号書を印刷するための工場や、海軍監督室、軍司令部分室などに使用されていた。  やがて戦禍がおとずれた昭和20年5月、横浜は大空襲に襲れた。  市内の中心地はもちろん、周辺一帯は焼き野原となるが、戦後の占領地として敢えて残したのか、ここだけは僅かな焼夷弾だけの被害で済んだのだった。  終戦後、案の定、伊勢佐木町や本牧と同様、連合軍に占領され、米国第8軍の管理下に入りアメリカ陸軍の地図や資料を印刷する工場となって再出発する。そしてやがては国内の印刷も請け負うようになり、一時的には戦後の活字ブームの流れにも乗って栄華を極めるものの、旧日本軍関係の物資を隠匿していることが摘発されて窮地に追い込まれ、それまでの全てを失ったのだった。  その後、競馬場跡地は軍用トラックの駐車場やゴルフ場として、建物はエリアXと呼ばれる横須賀海軍の住宅用施設として利用されるなど、最後まで本来の姿に戻ることはなかった。  かつては天皇も観覧したことがあるという由緒ある建物は、華やかだった頃の残像がわずかにこびり付いただけの姿に変貌し、返還後には、市による公園化の計画で取り壊されることも決まり、その長い歴史に終止符が打たれるのをじっと待つだけだった。  そんな激動の時代をくぐり抜け翻弄され続けたこの建物は、今はただ老いて疲れ果てた身体を沈黙の中に横たえて眠るだけであった。  晃二達の通っている小学校は横浜の中心地に近い、昔ながらの下町らしさが残っている界隈にあった。生徒達は商店街地区と住宅地区に分かれて住んでおり、この五人はみな住宅地区に住んでいた。そしてその観覧席も住宅地区にあり、晃二の家からは通学路のほぼ中間に位置していた。一応、米軍に接収された施設ではあったが、米軍住宅地域からは外れて日本の民家に隣接していたため子供達には普段から馴染みがあり、外観を恐がる反面、どこか惹かれる魅力のある建物でもあった。  六年生の晃二が下級生を引き連れて集団登校する際は、安全のために裏道を通るが、友達と一緒の帰り道は観覧席の前を通ることが多かった。それは広場の空き状況を知るためと言うよりは、古びた建物の外観を眺めることによって起こる何とも言い難い、身体の奥をくすぐられるような感覚が気に入っていたからである。  その重厚な古びた外観は、中世ヨーロッパの城に似て見えたし、割れた窓の枠を伝わるように一面に伸びている蔦が、映画や物語に出てくる建造物のような威厳さをかもし出していた。そのためか、夜に見ると、窓の闇の向こうから得体の知れない何かに見つめられているような畏怖を感じた。実際、子供達の間ではある種の聖域のような所でもあったし、暗くなると本当に幽霊がでるらしいと噂されていたので、夕方以降はあまり長居しない方がいいと皆思っていた。  しかし晃二達には、その近寄りがたい危なさが逆に魅力となって映っていたのである。 「捕まったってへっちゃらだよ、なっ」  モレの軽々しい台詞に、荒ケンは一瞬険しい表情をした。  どうやら迷っているようだ。その証拠に、すぐさま問いかけるような視線を晃二に送っていた。いつも彼は何かの判断に迷うと必ず、晃二の顔を窺うように上目遣いで見るのである。 「まぁ、確かに大変そうだけど…。なぁ、荒ケン」 「表はゲートや駐在所があるし、こっち側はこれやで」  荒ケンはしかめっ面で高いフェンスを顎指し、脚もとに唾を吐いた。  確かに表側の正面口からの突入は完全に無理であろう。そこは日本の中にあってもアメリカの領土なのだ。ゲートはMP(ミリタリーポリス)が常駐しているし、建物の目の前は管理事務局なのだから無茶である。捕まれば子供であっても不法侵入で罰せられるだろう。 「でもさ、あのさ、あのルートを使えばゲートの近くまでならたどり着け―」 「いや、無理だな」晃二は間髪入れず制した。 「問題はその後だよ。侵入してからどうすんだよ」  仮に自分たちで開拓した秘密の抜け道を通って入口まで行けたとしても、建物内部の構造を知らないのだ。2階に辿りつく前に全員捕まってしまうのがオチだろう。 「たとえ中の地図があったとしても、すぐに見つかっちまうさ」 「でもさ、そしたら逃げりゃいいじゃん」 「アホ、逃げ道すら分かんないだから、すぐ囲まれちまうさ」  正面からの可能性はゼロに近いだろう。それでも決行しようと考える奴は、要塞からの捕虜奪還話や、脱獄不可能な刑務所からの脱走物やらの映画の見過ぎか、単なる無謀なだけの馬鹿者である。 「よし。じゃあモデルガンとかヌンチャク持っていくか」モレは真顔で提案した。  やれやれ。晃二は彼が前後者両方に当てはまる、無鉄砲な奴だったことを忘れていた。 「このタコ。軍の施設ってのは機密情報やらで、すんげぇ警備が厳しんだぞ。無理に決まってるだろ、無理に」 「さすがMPの息子やな。説得力あるわ」  一瞬おだてにのって顔を崩しそうになったが、さも当たり前という態度でウメッチは凄んだ。 「ヤンキーを舐めると痛い目に遭うぞ、ボケ」 「それに子供だからって容赦ないから、撃たれるかもしれんぞ」  荒ケンは指を銃に見立ててモレの胸に突きつけた。 「まぁまぁ、じゃあさ、他の手を考えようぜ」晃二は手で制して続ける。  残る手はただひとつ、こちら側からの侵入路を見つけだすしか方法はない。 「じゃあさ、シャッターの割れ目をこじ開けたら?」  ブースケはライト側の錆び付いてボロボロになったシャッターを指さした。 「すぐにばれるような跡を残したら駄目に決まってんだろうが」  ウメッチは殴るポーズをして吐き捨てた。「ボケ!」 「もっと目立たないで入れるような場所があればいいんだけどなぁ」  晃二は高い所から建物全体を見下ろしたらどのように見えるかを想像した。  そもそも観覧席と言っても、その建物はスタンド裏側に建っている、3階建ての別の建物で、当時は下見場(パドック)として建てられたものだった。建物は丘を切り崩して建ててあるため、1階の正面口のあるフロアは、低いこちら側から見ると3階にあたる。そのため建物の両サイドは2階辺りまで小高い丘に接してていた。 「変な建て方だよな。丘に埋もれているなんてさ」  モレの呟きを聞いた瞬間、ふと何かが頭を過ぎった。 ― 丘? 埋もれている? ―  再度周囲の状況を見回した晃二の視線が一カ所で止まり、「あっ」と声を上げた。 「あそこなら可能かも…」  みんなの注目が晃二の閃き顔に一旦集まり、すぐさま彼の視線の先を追った。 「えっ、どこだよ」モレが眉間に皺を寄せて立ち上がった。つられて他の連中も中腰になる。 「どこどこどこ」みな望遠鏡を覗くみたいに両手で目の周りを覆った。なんだか敵機来襲でもあったかのようにいきり立つ。 「なるへそ、その手があるな」  荒ケンの細い目は建物左横の丘の上に釘付けになっていた。 「なるへそって何がよ。ちゃんと説明してくんなきゃ」  他の三人の目は、もったいぶらずに早く教えろと、せがんでいる。  荒ケンは自信を覗かせた表情で指差しながら言った。2階から侵入や。なっ。  小さく頷き、晃二はその後を引き継いだ。 「こっちも正面も駄目なら横からだ。あの丘の上まで登って窓から入るんだよ」 「あっ、そっかぁ。あそこからなら頑張れば窓によじ登れるわな」  やっと合点のいったブースケは、見開いた目で「さすがは名参謀」と手を叩いた。 「問題はいろいろありそうだけれど、なんとかなるかもな」 「あそこまでたどり着ければ、あとは壁を登るだけやもんな。お宝までの最短距離や」 「ほな、さっそく作戦練りまっか」  ウメッチが関西弁でおどけると、「そやな」と荒ケンは細い目をさらに細くした。  何か面白いことが始まりそうな予感がして身体の奥がくすぐられる。みな同様らしく、小便を我慢でもしているように小刻みに身体を揺すっていた。  予定を変更して練習を切り上げ、さっそく潜入計画を練ることにする。すぐさま砂場に車座になって腰を落とし、作戦会議を始める。 「あそこからが一番可能性あると思うけど、問題はどうやって丘の上まで行くかだよ」 「あの崖を登るしかないやろうな。ちっと大変そうやけど」 「登るったって急すぎねぇか? それに3メートルはあるぞ」 「スコップで足場を掘れば大丈夫だよ。まっ、ブースケ以外はね」 「うるさいなぁ。ちびのモレに言われたくないよ。そんなのよりもっと…」 「ストップ。一旦やめ!」  発言が飛び交い出し、このままではまとまりがつかなくなると思い晃二は叫んだ。進行役の権限で今後発言の際は挙手してもらうことにする。 「じゃあ、もう一度原点に戻って考えようぜ」 「でも晃二よ、それよっか崖の下までどうやって行くかの方が先決やないか?」 「んん…。そうなんだよなぁ…」晃二は溜息をついて考え込んでしまった。  目的地点から逆算して策を練っているため、身近な難関が後回しになっていた。  問題となっている建物側面の丘は、荒れた草木に覆われた野原になっていて、その手前は崖になっている。そして崖下は、ビールケースや廃品が積み上げられた酒屋の裏庭になり、そこと広場の境は2メートル程のフェンスで仕切られていた。つまり、まず上部にバラ線が付いた金網を乗り越えて庭に侵入し、次に切り立った崖をよじ登り、さらには荒れた草むらをかき分けてやっと窓下に辿り着く、という豪華三点盛りの難関であった。 「コンバットのサンダース軍曹だったらどんな戦法使うかなぁ」  モレは呑気にそう言って寝っ転がった。 「んーっ、どうしたもんだかなぁ」  晃二は唸りながら顔を上げた。すると澄み渡った空に一筋の白いラインが目に入った。  キャンプ座間に向かうのだろう、米軍機が定規で引いたような雲を描きながら遠ざかっていく。 「最初の難関のフェンスからして無理っぽいよなぁ…」  ぼやきながら小さな機影を目で追いかけた。 「やっぱそうだよな。乗り越えられそうもないし。どしたらよかんべ」 「そんだったら、酒屋の倉庫の中を突破すりゃいいじゃん」 「モレよぉ。お前ほんと突破が好きだなぁ。でも、あの陰険カミナリじじいのとこ突破するなんてできっこないじゃん」 「見つかったらただじゃ済まねぇぞ」  言ったばかりなのに挙手なんて誰もしない。三歩歩けば忘れる鶏並みの連中である。 「家まで怒鳴り込んでくるかもよ。なっ、晃二」 「ん? えっ、なになに」  機影が青空に吸い込まれたのを見届け、再び話に加わった。  なんだか頭の中がすっきりして、冷静に判断できるようになった気がする。今の内容をもう一度聞き、可能性を考えた。 「でも、案外いんじゃないかな、上手く作戦さえ立てれば」 「作戦ったって、中には従業員がいるんだぜ」 「要は見つからなければいいんだろ。だったら、おびき出すとか、他に注意を向けるとかすればなんとかなるかもよ。それに中だって複雑じゃないし、これだけビールケースが積まれていりゃ、隠れ場所だってたくさんあると思うな」 「三河屋のおっちゃんだったらオレ知り合いだから、なんとかおびき出せるかもよ」  ブースケがみんなの顔色を窺いがら小声で言った。  そこで考えたプランはこうである。  まず、ブースケが三河屋のおやじをおびき寄せ、その間に三人が潜入する。そしてシャッターの外に待機した見張り役のモレの指示に従って、酒のケースの間を隠れながら裏口まで辿りつくというものだった。 「おめぇ、いっつも楽な役目でいいよな」 「モレだってオレとあんま変わんないじゃん」 「またかよお前ら。あのな、簡単かもしれないけど、二人とも失敗は許されない重要な任務なんだぞ。わかってんのかよ」  モレとブースケの口喧嘩が始まりそうなので、晃二はそそくさと話を先に進めた。次の難関である崖登りの具体案を考えるためにレフト側のフェンスに移動する。 「やっぱ高いなー。それに3本もバラ線があるじゃん」  上部の忍び返しがこちら側に傾いているので、やはり乗り越えるは無理そうである。裏庭もごみ溜めのようになっていて、歩き辛そうだ。晃二は周りの状況を確認しながら金網から崖を眺めた。 「ここから見る限りは、足場さえ掘れば登れそうなんだけどなぁ」 「でもさ、背の届かない上の方はどうすんだよ? さすがに3メートルとなるとちょっと無理だろ。せいぜい半分がいいとこだよ。」 「じゃあ肩車してもらって掘りゃいいじゃん」 「おぉ、そりゃええな。…でも誰がするんや」  そこで考えたのは、背の高いウメッチに土台になってもらい、肩に乗りながら上の方の足場を掘るという案だった。 「なんだよ、発案者の俺を踏み台にして行くってのかよ、そりゃねぇぜ」  ウメッチは唾を飛ばして文句を言ったが、聞いていない振りをする。こういうときはみんな冷たいものである。 「ほんまはな、俺がやってもいいと思っとるけど、お前ほど背が高くないんで残念だよ」  荒ケンは申し訳なさそうに言うが、鼻がピクピクしていた。 「じゃあ、最後の難関の窓も同じように肩に乗っかってロープを結びつけよう」 「同じって、どっちが下になるんや。ちなみに俺の方が背は低いで」  勝負あり、か。わざとらしく荒ケンは背伸びした。 「ちぇっ。いいけどそのあとでちゃんと俺を引っ張り上げてくれよな」 「当たり前やろ。中でなんかあったら、晃二を囮にして逃げんやから」  荒ケンは真顔で言ったあと、ニヤッと含み笑いした。   結局潜入するのは、なんだかんだ言っていつもの二人に決定した。  もう一回計画のおさらいをしてから、みんな昼御飯を食べに一度家に戻った。                  3  予定通り、一時に花壇の柵に集合する。  みんな上気した顔つきで、手には色々な物を握りしめていた。 「ペンチとスコップはあったけど、ライトは見当たらなかったよ」  晃二がリュックサックから取り出すと、荒ケンは「大丈夫や」と言って、大きめの懐中電灯と工事用の黄色と黒のロープをズタ袋から引っ張り出した。 「これ見てくれよ。この軍のナップザックなら50個ぐらい入るぜ」  ウメッチは園芸用の鎌を持ったまま、目の前で大きな迷彩色の布地を広げた。 「そんなにたくさんのボール、あるのかなぁ」 「あるかもしれないだろ。お前は夢が小せぇなぁ」 「大きいことはいいことだ〜 それっ」  ウメッチは、山本直純ばりにタクトを振るまねをしながら森永のコマーシャルソングを歌い出した。  先ほどの作戦会議では、必要品以外にも役立ちそうな物が思い浮かんだら持ってこよう、という話だったが、残る二人の手にしていた物が理解できなかった。 「なぁ、モレ。そのスパナは何なんだよ?」 「へっへ、これはね、三河屋の前で見張るとき、チャリンコを直してるように見せかけるための小道具だよ」 「なるほどね〜」  ウメッチは一応感心するものの「もっと実用的な物なかったのかよ」と小さく嘆いた。  端からあてにしていなかったので問題ない。ヌンチャクよりはまだましだろう。 「まぁ、モレにしては上出来なんじゃない」  そう揶揄うブースケに、モレは声を裏返らせてつっかかった。 「うるせんだよ。じゃあ、お前の茄子は何だよ」 「えー。あのさぁ、うちのかーちゃんが持ってけって言うから持ってきたんだよ」 「なんで茄子なんか必要なんだよ」 「違うよ、三河屋のおっちゃんにって持たされたんだよ」  どうやら昼飯のときに母親と三河屋のおやじの話をしたところ、いただいた茄子をおすそ分けに持っていくことになったらしい。 「どう。おびき寄せるときの口実になるだろ」  いつもは足を引っ張ってばかりだったが、これで汚名返上できると思ったのだろう、これ見よがしに胸を張った。 「まぁいいけど、渡す前にお前食うなよ」  モレは常にひと言嫌みを言わずにはいられないのだ。 「まぁまぁ二人とも。準備も整ってきたことだし、最後の打ち合わせをするか」  晃二を囲むように五人は丸くなってその場に座った。  コンクリートはさらに熱をため込み、尻がジワジワと熱くなってくる。そのせいか、興奮しているせいか、はたまたその両方か、身体の内側を擽られているようなこそばゆい感覚に包まれてくる。  実行に移す前に念を入れてもう一度計画をおさらいするには理由があった。  小学校の規則で米軍地に入ることが禁じられていたり、それが法に触れていたりすることもさることながら、キャンプ内でMPに捕まれば即座に米軍施設内の牢屋に入れられ、一ヶ月間施設の便所掃除させられる、という噂を疑わしくもみんな信じていたからだった。さらには、町内でも一番口うるさい三河屋のおやじに見つかれば家に苦情が行き、親にこっぴどく叱られるにきまっているので、慎重に事を運ばなければいけないのである。  五人は意を決すると、各自の持ち場に散らばっていった。 「三河屋のおじさーん」  こちらをひと目見てから、ブースケは倉庫の奥に声をかけた。  ………。  茄子の入ったビニール袋を揺さぶりながらしばらく待つが反応がない。  不安そうな面持ちでこちらを見るので、晃二は口に両手を当て、もっと大きな声でというジェスチャーをして再度試みるよう促す。  もう一度、今度は大きく息を吸い込んだとき。 「なんだツトムちゃんか」  ダミ声が聞こえたあと、おやじはだぼだぼのズボンをずり上げながら奥からゆっくり出て来た。 「こんちわ。あのー、暑いですね」 「そうだな。このまんま暑い日が続けばビールが飛ぶように売れるんだけれどな」 「へー、そういうもんなんだ。じゃあもっと暑い日が続くといいね。そしたら来月から夏休みになったりして」 「ははは。まだ四月じゃないか。で、学校の方はどうだ、今度六年生だろ、ちゃんと勉強してるか?」 「うん。来年は中学だもん」  小さく聞こえる会話に耳を傾ける三人は、余計なことを言わないか、気もそぞろだった。 「真面目一筋で、妙な悪巧みなんてこれぽっちも考えてないよ」  案の定、ボロが出そうになり、遠目で成り行きを見守っている三人はじれったくなってきていた。  「あのバカ、何くっちゃべってやがんだ」  ウメッチは貧乏揺すりをはじめ、荒ケンは黙ったまま爪を噛みだした。 「世間話は後の時間稼ぎのときにしろよ。あいつ合図を忘れたわけじゃねぇだろうな」  さすがに晃二も少し心配になってきていた。  しばらく話が交わされたあと、ブースケは立ち位置を少しずらし、おやじの顔の向きを変えた。きっかけのアクションである。 「えーと、うちのかーちゃんがこれ持ってけってさ」  ブースケはビニール袋を持ち上げ、ほんの一瞬三人を見た。 「よし行くぞ!」  それが合図だった。三人は足音を立てないようにおやじの死角を走り抜け、まずは倉庫の入口横の扉に身体を潜めた。ここからは時間との勝負である。  ブースケがおすそ分けの理由を話しておやじの気を引いている間に、倉庫の裏まで抜け出なければならなかった。しかし、倉庫の中では数人の従業員がビールケースを運んでいて、そのまま走ればすぐに見つかってしまう。  そこで今度はモレの出番だ。  倉庫左横に開いているシャッターの前で、いかにも調子の悪い自転車を直している少年を演じながら、モレは三人が走り抜けるコースと従業員の動きとをじっと観察していた。 「ちゃんと、こん中を見渡せる位置に陣取るなんて、なかなかやるじゃん」 「自分で諜報部員だなんて言ってるだけあって、こういうことをやらせると役にはまるよな」  そんな滅多にない誉め言葉も知らずに、健気なサイクル野郎はチェーンをいじりながら視線だけをキョロキョロ動かしている。  ちょうど従業員がビールケースを積み上げているときを見計らって、モレは右手のスパナを高く上げた。 「よっしゃあ。行くぜ」  合図を見た三人は腰を屈め、倉庫中央のリフトの陰まで爪先に重心をかけて走った。ビールケースと酒瓶のケースが壁のように並ぶ隙間を、まるで犯人を追いつめた刑事のように。 「なんか、七人の刑事みたいだな」  ウメッチも同じようなことを思っていたらしい。  天井の明かり取りから差し込む光だけだったおかげで、目立たずに移動できた。リフトの陰に潜むと、ひんやりした空気の中にケースの木の匂いとほんのり日本酒らしき匂いが漂ってきた。 「くしゃみとか、せんようにな」 「そう言われると、かえって出そうになるじゃねーかよ」   二人のやりとりを横で聞いていたウメッチが、慌てて両手で口を塞ぐ。  モレを見ると、さもチェーンの具合を確かめるように自転車をやや前進させ、こちらが見える位置にさりげなく移動している。日差しを全面に受けたブロック塀の前で、逆光となったモレの姿が頼もしく目に映った。 「こういうときに本領発揮するってことは、元々犯罪に向いているんじゃねぇか」 「そやけど、目立ちたがり屋でお喋りじゃ無理やな」  モレもブースケも、時々株が上がるような活躍を見せるのだが、それを帳消しにするようなヘマも多かったので、いまいち評価は低かった。二割そこそこの八番バッターってところである。 「なぁ、このまま次は裏口まで行けそうじゃん」  晃二が顎で指した、ボンヤリとした薄明かりの先には、鉄の扉らしきものが見えた。  目指す脱出口を認め、荒ケンは小さく頷く。 「よし、じゃあ扉の横の柱に隠れよう。二つ目のケースで右に入るぞ」  これでコースは決まった。あとは合図を待つだけである。全開になっている窓を注目する。その四角く切り取られたスクリーンの向こうで、ミラーが陽を反射して眩しく光っていた。  少ししてリフトの音が止み、聴こえるのは鼻息だけになったとき、日差しの中で右手が高々と上がった。  三人は肯き、光と影の交差する狭い通路の奥へと足を踏み出した。3人の偽リーガルのゴム底は本物に劣らず軽快に、そして音もなくコンクリートの床を蹴っていく。  途中でウメッチがケースの角に膝をぶつけたが、さほど音はせず大事には至らなかった。 「よっしゃ。ここまで来ればもう大丈夫やな」 「おう。…でも痛ぇのなんのって、思わず叫んじゃうとこだったよ」  ズボンをまくり上げ、フラミンゴのように片足立ちで傷痕にツバをつけている姿が滑稽で笑えた。 「笑うことはねぇだろ、笑うことは。こっちは我慢すんので大変だったんだからな」 「お前が不注意だからいけねぇんだよ。命取りにもなりかねなかったんだからな」 「ベトナムじゃあるまいし、大げさなんだよ晃二は」  まじかよ……。二人がぶつぶつ言い合っている横で荒ケンが呟いた。 「なに。どうした?」  荒ケンを見ると、ノブを掴んだまま考え込んでいた。南京錠が掛かっているのである。 「やべっ。鍵のことまで頭に入れてなかった。なぁ、晃二」 「この前、裏にゴミを捨てていたのを見たから、普段から鍵してないと思ってたよ」  想定外のアクシデントに出くわし、三人の動きが止まる。 「ちっ、予定外やな」手落ちであったが、誰も責めることはできない。険悪な空気が一瞬漂った。 「どうすんだよ。このまんまじゃまずいだろ」 「そりゃそうや。だから別の作戦に変更や」 「別のって言っても……。晃二、何か考えてくれよ」  そう言われても考えている暇なんてない。陰険オヤジが戻ってくるかもしれないのだ。 「これから戻るのは無理だから、他の出口を探すしかないだろうな」 「他の出口なんて言ったって、どこにも見あたらないぞ。どうすんだよ」  苦境での決断に迫られ、顔をしかめているときだった。 「いや待て。それだ」  晃二は横の壁に掛けられた黒板の受け皿に、チョークに紛れていた鍵の束を見つけた。 「よっしゃーラッキー。やっぱ俺の日頃の行いがいいからだな」  ウメッチは喜び勇んで持ち上げたが、鍵の数を見て黙ってしまった。 「くそっ。これじゃどれだか分かんねぇじゃんか。ちっ、誰かさんの行いがいいからな」 「なんだよ、俺のせいかよ。何かと言うといっつもさ―」 「しょうがねぇ、一個ずつ試すしかねぇな」  何のために使うのか分からぬが、鍵は見たところ十二、三個はありそうだった。 「時間がねぇから早く―」  急かそうとしたところで背後で声がした。どうやら話しを終えたおやじが戻ってきてしまったようである。 「やべっ。隠れろ」三人は咄嗟にビールケースの陰にひれ伏して隠れた。  前を横切るとき、おやじはこちらを見て立ち止まった。「えーと何ケースだったかな」そう言いながら黒板に近づいてくる。 ― うわぁ、だめだ。見つかっちまう ―  足音がすぐそこまで近づき、晃二はぎゅっと目をつぶった。  そのときである。事務所の中でけたたましく電話が鳴り響いた。  この状況を考えると救いの電話なのだが、発見されたサイレンのように聞こえた晃二は身体を硬直させた。他の二人も固唾を呑んで状況を見守っている。  最悪、見つかったときは、顔を見られないようにして走って逃げる、という決め事を思い出したとき、 「おぉ、そうだそうだ」と緊張感のない台詞を残して、おやじの履くサンダルの音が遠ざかっていった。  扉が閉まる音を聴いて、三人は歯を食いしばったような顔をようやく弛めた。 「ふーっ。助かったぁ。やっぱ俺の日頃の行いのおか―、げほっ」  荒ケンは唸りながらウメッチの首を絞めた。 「はぁー、心臓が飛び出るかと思ったぜ」呟きながら晃二は立ち上がって耳を澄ませた。  話し声がするので、どうやら電話に出たようである。だが、事務所は斜め前にあり、扉はこちらに向いている。出てきたらもろに見つかってしまう。 「どれでもいいから早く入れろ」束を凝視していたウメッチを荒ケンがせっつく。  すかさず一個掴み、穴に入れようとするが焦っているため上手く入らない。 「アホか、そりゃどう見ても大きすぎるだろ。貸せっ」  今度は荒ケンが屈んでトライする。暗いうえに鍵穴の位置が悪く、思うようにいかない。 「くっそー。いらいらさせやがって」  6個目も違い、態勢を変えたときである。事務所の中から従業員を呼ぶ声がした。 「まずいぞ。誰かこっちへ来るかも」  焦りが募り、荒ケンの貧乏揺すりが激しくなる。  再び隠れる態勢を取るべきか迷っていたところで「カチッ」と乾いた音がして緑青の浮いたフックが持ち上がった。  磨りガラスの光に浮かんだ三人の瞳が一回り大きくなり、顔を見合わせて口元を吊り上げた。 「やったぜ。逆転サヨナラホームラン」  晃二がそう言いながらゆっくり扉を押した瞬間。  ギュィーン。耳障りな音が辺りを包み、一同身体を強ばらせた。  息を詰めたまま怯えた顔を見合わせる。晃二は逃げるべきか、様子を見るべきか迷った。  様子を見るべきだ。人差し指を口の前にして肯いた荒ケンの表情がそう語っていた。  警報装置でも作動したのだろうか。ダルマさんが転んだのように静止状態のまま目だけで辺りを窺う。  だが、何の変化もなかった。ただ一定の機械音が継続して響いているだけである。 「な、なんだよ。俺のせいじゃねぇからな、俺じゃ」  被害妄想が多いウメッチは、身の潔白を訴える。 「おいっ、もしかしてあれじゃねぇのか?」  荒ケンが顎で指した方向に見えたのはベルトコンベアで、そう言えばさっきまでは動いていなかったが、いま見ると壁際に沿って空き瓶が流れている。音も確かにそこから聞こえてきていた。 「なんだよ、驚かせやがって…。でも、すげぇタイミングだったなぁ」  晃二は憤慨するどころか、その絶妙な間に感心していた。 「なに言ってんや、とっとと出るぞ」  荒ケンは膝蹴りをかまして二人を押し出した。 「うわっ、まぶしっ」いきなり強い日差しの下に出たため目がくらんだ。  三人は一斉に手で目の上を覆い、目を瞬せながら辺りを窺った。  あたりは草木に覆われていたが、緑に混じって様々な物が転がっていた。庭というよりかは、ゴミ捨て場と言った方が合っていそうだ。  だが、さほど気にならなかった。きっと急場をしのいだ後の安堵感の方が強かったからかもしれない。 「でもさ、よくなんとかなったよな」 「あぁ。それにしても…クククッ。さっきのお前らの顔ったら」 「よく言うぜ。荒ケンだって、そうとうなアホ面だったぜ」  呆然と口を開けて見合わせていた姿を思い出すと笑いがこみ上げてくる。 「ちょろいもんだよ。今度は酒蓋でもいただきに来るか」  ついさっきまで半べそだったウメッチは照れ隠しにそう強がって、鎌を振り回しながら先へ進んだ。 「とりあえずは第一関門突破だな」二人もゆっくりとそのあとに続いた。  いつものフェンスが右手にあり、広場の様子も見渡せたが、どこか違って見える。なんだか別の公園に見えなくもない。反対側からだとこう見えるのかと、大したことでもないのに感慨深くなってしまう。  朽ちたビールケースや古タイヤの山などを避けながら歩いていくと、突き当たりで泥の壁が現れた。やはり3メートルほどだと思われるが、間近で見ると数字以上に高く感じる。  崖を見上げている晃二の横で、荒ケンは色が濃くむき出しになっている部分をスコップで掘り始めた。  しばらくして、こぶし大の塊を掘り出すと地面に叩きつけた。ドンという低い響きと共に割れて転がった土は粘土質でしっかりしてそうだった。 「よっしゃ、だいじょぶや。じゃあ、はじめるか」  晃二が足をかける位置を見当で決め、鎌の先で四角く輪郭を削っていき、二人は左右に分かれて印の中を掘っていく。考えながら進める頭脳班と腕力勝負の労働班。この手の分担作業は、常日頃から言われずしも己の役目を見つけて黙々とこなしていく。 「こんちくしょう」「くそやろう」二人は敵討ちでもしているかのようにスコップを振り下ろしていた。  この方が力が入るというのは分かるが、両側でやられるのはたまったものではない。かと言って止めろとも言えないので、あきらめて晃二も適当に合いの手を入れてやり過ごした。  爪先が余裕で入るくらいの穴を四つ掘ると、次はウメッチに肩車をしてもらい、少し上にも同じ様な穴を掘った。さらにその上にも掘るため、最後は肩に直に乗っかり、全部で八カ所に足場穴を作った。ただし下側の穴はやっつけで掘ったので、残りの仕上げはウメッチに任せ、二人はさっそく登ることにする。 「ちぇっ。見張りだけじゃなくて穴掘りまでさせるのかよ」 「文句言うなよ。ちゃんとしときゃ、後々役に立つだろ」 「いいから早く土台になれよ」  我ながら上手くいったので、早く登りたくてウズウズしてきた。結構勾配はきついが、帰りはロープでも垂らせば問題ないだろう。  まずは荒ケンだ。崖に両手を突き、中腰になったウメッチの肩に跨がり、立ち上がりざま爪先を穴に引っかけて登って行く。上の段にあがるときの手足の力の入れ方とタイミングがポイントのようだ。沢ガニ取りでよく岩登りをしていた自分たちには問題なさそうに思えた。  最後の一段に手をかけた荒ケンの姿の上方に、さっきよりも濃い青空が山奥の湖のようにひっそりと広がっている。気がつくと雲はどこかに流れ、穏やかさを取り戻していた。 「よっしゃ。晃二よ、しっかり手をかけながら登れば大丈夫や」 「オーケー、意外に楽そうじゃん」  今の要領を真似て登るが、高を括ったのがいけなかった。最後に掴んだ崖上の草がちぎれて、危うく落ちるところだった。 「おぉ。まじでやばかったなぁ」  ほっと息をついて見上げると、荒ケンは黙ったままニヤニヤしていた。 「何だよ。しかとしてねぇで助けろよ」 「こんなとこ、落ちたって死にゃせんよ」 「とことん冷てぇ奴だな」  二人はうまくここまで順調に来られたので、言い合いながらも笑顔だった。  建物までは残り約二十メートル。胸まで伸びた雑草を大雑把に鎌で刈りながら進む。 「結構蚊が飛んでんから、気ぃつけろよ」 「ちぇっ、またこいつらかよ」  以前、竹藪で身体中刺された苦い経験のある二人には天敵だった。 「それよっか、危ねぇつぅの」  追い払おうと中腰で格闘している鎌がブンブン音を立てていた。  やがて建物の影まで達し、一息つく。辺りは草の濃い匂いが充満していた。 「汗だくやな。なんで、こんなことまでせにゃ…」 「草刈りなんて、普段だったら褒められそうなことなんだけどなぁ」  腰を押さえて立ち上がり、二人は振り返った。 「でも、まぁまぁ良くできてるじゃん」 「周りからは見えんし、トンネルみたいやな」  手応えや成果が見えれば、不満やぼやきは片隅に追いやられるものだ。  窓下まであと少し。二人は「とっととやっちまおうぜ」とすぐさま再開した。  崖から吹き上がってくる風が汗ばんだ身体に心地よい。後半は鼻歌交じりでリズムも良く、さほど時間はかからなかった。  建物の壁は北側になるからだろう、広場側に比べて空気が湿っぽかった。実際、壁の下側は苔むしていたため、滑って登り難そうに見える。 「なんかすげぇな。と言うか、ちょっと不気味じゃねぇ?」  目の前の外壁はところどころ変色していたりヒビが入っていたりしている。そこにはかつての風格など見あたらず、アカギレした肌のようで痛々しさを感じた。年月を積み重ねるうちに忘れ去られ、見捨てられたこの建物の、儚さのようなものが伝わってくる。  壁に軽く触れてみると、そんな哀れみの奥に何故だか懐かしさを覚えた。なんだか人里離れた山奥に住む老人にでも会ったような、そんな感じであろうか。 「まぁ気にせんと、さっさと潜入しよか」  荒ケンは早く入りたくて、いても立ってもいられないようだ。 「はいはい。すぐ土台になりますよ」  壁に手を付き、前傾姿勢をとると、いきなり荒ケンは馬跳びのように跨ってきた。 「もうちょいか」そう言って、鷲づかみしたシャツを引き寄せ膝立ちになる。 「く、首が絞まるーっ」晃二の苦しみなんか気にもとめず、背中をよじ登り、ガラスのなくなった窓枠に手を掛けた。 「じゃあ、いくで」飄々とした声でそう言い、思いっきり晃二の肩を蹴った。 「いてぇなっ、ちょっとは加減しろよ」  文句を言って見上げると、壁と格闘しているスニーカーからボロボロと泥が飛んできた。 「わざとやってんじゃねぇだろうな」  後ろに飛び退いた晃二を鼻で笑って、上半身をくねらせながら窓の中へ滑り込ませていく。  あえぎ声が向こう側に消え、汚れたシャツが見えなくなり、最後に泥の付いた二つの靴底が吸い込まれるように消えた。と同時に辺りは静かになった。 「……おい、大丈夫か」  尋ねても返事がない。声どころか物音ひとつ聴こえてこない。 ― まさか。落ちて怪我でもしたんじゃ ―  突飛な心配事が頭をよぎる。もう一度声をかけたが反応はない。心配性のウメッチなら、ここで翌日の新聞の見出しが頭に浮かぶんだろうな。なんて思いながら、晃二は耳を澄ましていた。  しばらくどうすべきか考えを巡らせていたところで「すげぇよ!」と大声がした。 「めっちゃ広いぜ。何にもねぇし、体育館みたいやし」  突然窓から身を乗り出した荒ケンは珍しくはしゃいでいた。 「なんだよ、人の気も知らないで」「いいから、早くロープ結べよ」  ホッとはしたが、心配して損した、と、どうすごいんだ、が入り交じって声が裏返ってしまった。  すぐに安堵感は興奮に取って代わり、だんだん気が逸ってくる。リュックを担ぎ直し、指の骨を鳴らしていると、目の前にロープが下りてきた。 「壁は滑っから、ロープの瘤に掴まれや」 「オッケー。いよいよか。なんか川口探検隊みたいだな」  先月テレビで見た、地底人を探す番組の冒頭の場面が頭に浮かぶ。  一呼吸置いてからロープをぎゅっと握りしめた。  そして二度と戻れないかもしれぬこの地の風景を心に刻むかのように、一度後ろを返り見てから登り始めた。                  4 「すっげーー」  二人は上手く言い表す言葉が見つからず、立ち竦んだまま首だけを動かし続けていた。  粉っぽいコンクリートの臭いと黴臭さの混ざった空気は、外に比べて温度が低く感じられる。その上、なんとなく密度さえ濃く感じた。まるで何年も前から時が止まって封印されていたかのように思える。軽く口笛を吹くと、眠っていた空気が波紋を立てて広がり、部屋の隅々に吸い込まれていく。窓から差し込む午後の日差しは、割れた窓を型どって床に幾つもの幾何学模様を映し出していた。歩き出すと、床から微かに舞い上がった埃がその模様の中にチラチラ浮かび上がってくる。  さほど暗くはなかった。だが、晃二はリュックから懐中電灯を取り出し、遠慮気味に辺りを照らしていった。 「……なんだか、ギャングの隠れ家みたいだな」  これが第一印象だった。あまりに日常とかけ離れているので、映画のセットだと言われても納得しそうである。  高さは少し低いが、広さは学校の体育館くらいあった。だが、周りが剥き出しのコンクリートだったので、体育館と言うよりは立体駐車場に近いかもしれない。競馬場だった頃は1階の馬舎から、なだらかなスロープを3階まで上がっていったらしい、と父親に聞いたことがあったのを思い出した。  だだっ広い部屋の中央に、何故か大きな木製のテーブルと壊れかけた椅子がポツンと置かれていた。他には何もなく、奥の三分の一は金網が張られて仕切られている。  さっきから、いたる所に転がっているボールには気付いてはいたが、教室の机くらい幅広い柱や、天井近くまである高窓など、今まで見たこともない造りに圧倒されて拾うどころではなかった。 「すげぇなー。こんなとこがあったなんて」  見たこともない光景を目の当たりにして現実味が全然感じられない。 「なんや、違う世界に入り込んじゃったみたいやな」 「あぁ。…でも、入っちゃって良かったのかなぁ」  晃二は米軍施設への不法侵入という後ろめたさよりも、この威圧感あふれる巨大な空間に立ち入ったことへの是非を問いたかった。 「いまさら遅いわ。せっかくなんだから、ちっと偵察してみようぜ」  荒ケンは奪い取るように懐中電灯を掴むと前方を照らし「前進あるのみ」と言って微笑んた。  恐る恐る、上下左右、周り全てに注意を払いつつ忍び足で二人は歩き出した。。  かつては壁や柱に白いペンキが塗られていたのだろうが、今となってはうらぶれ、ヒビだらけであった。壁に描かれた英語の文字は、ところどころコンクリごと剥がれ落ち、解読不能である。まるでジグソーパズルのピースみたいに、ぽっかり崩れて空いた部分が数多く見られた。  降り積もった埃の上を一歩一歩進むと、荒れた床の形状が靴底を伝わって感じられる。 「あれ見てみい。新聞やで」  柱の陰に褪色して埃と同化している新聞の切れ端が落ちていた。  そっと、壊れ物でも触るかのように指で摘み、晃二の目の前に差し出した。 「なんだ英語か、読めっこねぇよ。それに字が薄すぎるな」  そう言いながらも晃二は目を細めて顔を近づけてみる。 「でも、1961って書いてあるぜ。これって一九六一年ってことだろ? すげぇな、俺達の生まれる一年前の新聞だぜ」 「ほぉー。その頃はここも使われてたんかな」  晃二には考古学的発見のように思われた代物だったが、荒ケンは全く興味がなさそうだった。 「それよりさー」そそくさと話題を変えて、先に進もうと柱の陰から一歩踏み出したそのとき。 「おいっ! 誰かおるで」  そう言うや否や身を屈め、反射的に晃二の腕を下に引っ張った。  すぐさましゃがもうとするが、急な展開に身体が強ばって動かない。 「そのままでええから、ちっと覗いてみろや」と言われても躊躇してしまう。 「右から2本目の金網のポールの横や、はよせー」  恐る恐る柱の陰から覗くと、金網の奥に確かに人らしい陰が見える。 「本当だ。でも、なんであんなとこで…」  背の高さから言ったらアメリカ人のようだが、あんな狭苦しいところにいるのが不自然であった。 「それよっか、どうする? まだ気付かれてないようだし…」 「なにびびってるんや。確かめてみんとわからんやろ」 「けど、やばいって。ちょっと様子みないと…」 「なら、ちっと待ってろや」荒ケンは腰をかがめてゆっくりと近づいていった。  最初はいますぐ逃げ出したい気持ちで一杯であったが、だんだんと好奇心の方が勝ってくる。晃二もそろそろと壁沿いに移動した。  二十メートル程の距離のくせに、うっすらと紗がかかったように映った。きっと現実感が薄れているせいで幻想的に見えるのかもしれない。いや、もしかしたらそこだけ本当に空気の質が違うのかもしれない。 「気がつかれたらソッコウで逃げるからな。ダッシュせぇよ」  横に並んだ晃二の耳元で荒ケンは囁いた。 「まさかホールドアップってことにゃなんねぇだろうな」  ……。二人の動きが止まった。 「アホ、脅かすなよ。そんときゃそんときや」 「そんときって、俺は囮になんかなんねぇからな」 「ドアホ。そんときゃ黙って両手上げりゃいんだよ」  緊迫感で麻痺してきたのか、ひそひそ話も段々投げやりになってくる。 「いいから行くで」  口をへの字に曲げた二人は前方を凝視したまま、息を止めて爪先歩きで壁沿いに近づいていく。  そして金網まであと少しという辺りで荒ケンは立ち止まり、覗くように背伸びした。 「なんや」一歩踏み出し「へっ?」  そして複雑な表情で振り返り、おどけた声で言った「ありゃ、人形や」  一瞬の間があったあと、晃二は眉をしかめたまま近づいて凝視した。  ふーーっ…。緊張が解けると同時に全身の力が抜けてしまった。 「なんだよ。ばっかみてぇ」 「ほんまや。アホくさ」  二人は笑いながら近づいて網目から確認する。近くで見れば何と言うこともない、ただの人形だった。 「けったいな人形やな。服まで全部着せてあるわ」  マネキンとも違うし、確かに奇妙な人形だった。戦時中に射撃場があったと聞いていたので、もしかしたら軍事目的にでも使われていたのかもしれない。  でも、一体なんのために? 標的かなんかか? 想像は膨らむ一方だが答えは出そうもない。晃二は考えるのを止め、金網の内側を見回した。  幌をかぶった大きな物体や、スチールのロッカーみたいな箱状の物が連なり、視界を邪魔していた。ところどころに積まれた段ボールや古い木箱が見える。 「なんや、倉庫らしいな。入ってみよか」  荒ケンは窓際にある出入口らしき部分の金網を揺さぶった。 「うわぁ頑丈やな。見てみ、ぶっとい鎖で繋がれてるわ」  晃二は後ろに下がって扉の全体を見回した。 「ゲートの入口と同じパイプだからこりゃ無理だな」  さも専門家みたいな口振りで判断を下した。そう言えば、ヤンキーはやることなすこと全てでっかく派手だ、とウメッチが言っていたのを思い出した。 「これじゃしょうがねぇよ。どうせゴミ溜めだろ、他を偵察しようぜ」  本当は何か発見があるかもしれなかったので、入りたかったがこれでは仕方ない。晃二はあきらめて奥に向かって歩き出した。  そのまま金網に沿って進むと、薄暗い空間の向こうにスロープが現れた。 「ここを上がっていくと3階だな」  確かにスロープの間近まで行くと、暗闇の斜め上方に四角く切り取られた3階の壁がうっすらと見えた。 「どや、登ってってみんか」  荒ケンの表情は暗くて見えなかったが、きっと上目遣いになっているに違いない。  晃二は少し考え、無茶は止めた方がいいと判断した。好奇心がないわけではなかった。 「やめとこ、今は。欲かいて見つかったら、元も子もないしさ。って言うか、お楽しみは取っといて、次にみんなと来ようぜ。俺達だけで楽しんじゃ悪ぃよ」  荒ケンが返事をするまで間があったが、なんとなく薄闇の中で彼が微笑んだ気がした。 「まっ、そうやな。じゃ、球でも拾いに行くとすっか」 「おっし、じゃあ、あのテーブルんとこに集めようぜ」  やっと本来の目的を思い出した二人は、散り散りになってボールを捜し始めた。  こうして改めて見渡すと、不思議な光景である。  がらんとした空間に点在しているボールたちからは妙な存在感を感じた。光を浴びて自分を主張しているもの、逆に影に沈んで堅く口を閉ざしているもの。それらは不規則に転がっているのだが、誰かが何かの考えがあってこう並べた、と言われれば信じてしまうような、一種独特な芸術性すら感じられた。それら一つ一つを拾ってきては、ためつすがめつテーブルに並べている晃二の動作は、まるで果物の品定めをしているかのようだった。 「なにのんびりやっとんや。はよ拾って戻るで」  荒ケンの言葉で我に返り、辺りを見回したら、まだ半分以上残っていた。 「あ、あぁ、わりぃ。こっち側は全部拾っとくよ」  晃二は振り返り、小走りで奥の方へ向かった。 「なんだかんだ言って結構あるじゃん」  ボールを拾っては胸元からシャツの中にため込んでいたとき。  あっ! 中腰で目を凝らしていた晃二がふと顔を上げると、壁の途切れた裏側に下りのスロープらしきものが見えた。さっきの登りスロープのちょうど反対側に位置している。気がつかなかっただけで、1階への道があるのは不自然なことではない。一瞬躊躇したが、おもむろに近づいて正面に回り込んでみた。 「……」息をのんだ。  スロープはなだらかに斜め下に伸びていた。だがさっきと違い、その先にあるはずの1階の存在はなく、真っ暗闇に包まれていた。  寒気のようなものがした。だが反して身体は無意識に二、三歩近づいていた。  しかしそれがやっとだ。それ以上近づくと、見えない力で引きずり込まれてしまうような錯覚に襲われた。興味本位で近づく者を寄せつけない確固たる闇の拒絶を感じた。  底の方から唸りのような音が微かに聴こえ、冷めた空気が足下を抜けていった、気がした。  このままここにいるのは良くない、と思い、見えない何かに気付かれないよう、ゆっくりと後ずさりしてその場を離れた。  ボールを拾い続けながらも、なにか落ち着かない。あたりまえに下に続いているのだろうが、何故かもっと深い地下の、それもどこか違う場所に続いているような気がした。  ボールでシャツを膨らませた晃二は、戻ってくるなりスロープのことを話した。 「ほぉ、すげぇな。ほんじゃ偵察してくるわ」荒ケンは懐中電灯片手にスロープに向かった。  晃二はその場に残り、気を紛らわせるように詰め込み作業を再開した。米軍のナップザックが8割ほど埋まったので、数えてはないが相当な数である。他にも何か土産になるような物はないかと、辺りを見回したとき、テーブルの抽出が目にとまった。そのまま上の段を何気なく引っぱってみる。  嫌がるようにガタガタと左右にぶつかりながら開いた抽出の中には、一枚の便箋のような物が入っていた。そっと取り出して眺めてみる。  筆記体の英語で書かれた文章は三行目で途切れるように終わっていた。もちろん読めるはずもないので、何が書かれているのかは解らない。  なんだこりゃ。そう呟きながら下の段を開けると、今度は一番奥に小さな茶色い紙が残されていた。  五センチ四方ほどの紙片をつまみ上げ、よく見てみたら、切り取られた写真だった。  そこにはお婆さんと若い女性と女の子が写っていた。雰囲気が似ているのできっと家族なのだろう。三人とも正面を向き、上品に笑っている。  他人の触れてはいけない秘密を覗くような気まずさがあったが、晃二は便箋とともに机の上に並べ、頬杖をついて眺めてみた。別に謎を解明するとか、ここに残っていた理由を考えるとかでなく、ただ眺めていると、自分の家族の顔が浮かび上がってきた。 「言った通りやな。まじで、ちっと怖いわ」  気がつくと荒ケンが戻ってきていた。 「えっ。あぁ。そうだろ。なんか不気味だよな」 「今度、そのうち完全装備で探検してみようや」 「あぁ。なんだかここには調べることがいろいろありそうだな」  晃二はさっきの得体の知れない畏れや、目の前の写真などが、自分達に何か訴えかけているように思えて仕方なかった。 「これさ、抽出開けたら出てきたんだけど、どう思う?」  便箋と写真を渡しながら晃二は尋ねた。 「ほぉ。昔の写真かいな。おそらくここで働いていたヤツのもんやろ」 「きっとこの持ち主の家族かなんかで、大事な物かもしれないな。写真の裏側にママとかリサとか書いてあるからさ」  なんだか切ないような、心苦しいような気持ちがじわじわと沸き上がってくる。 「この人は国に帰って家族と再会できたのかなぁ……」誰にともなく呟く。 「わからへんな。ベトナムに行ってたら死んでるかもな」  ポツンと言い放った荒ケンの言葉が脳裏にこびりついた。  親の話やニュースでしか知り得ていない戦争というものに未だに実感が湧かなかったが、終戦記念日にテレビ映像で見た、ある家族の、特に老いた母親の言葉が思い出された。「それでも、いつか、きっと帰ってきてくれると信じています」息子の写真を抱えて言った、その姿が急に目の前に浮かび上がった。 ― 一体どんな人がこれを置いていったのだろう。そして彼は今どうしているのだろう ―  色々な気持ちがないまぜになり、以前ここにいたであろう男の姿を想像してみる。 「さてと」  考えたってわかんねぇよ、とでも言いたげに、荒ケンはボールを晃二の目の前にかざしてから、ゆっくり窓に近づいていった。  まぁそうだな。いま気にしたってどうなるわけじゃない。  晃二も逆光になった荒ケンの後ろ姿を追いかけた。  一歩一歩窓に近づくにつれ光が増し、空気の比重が軽くなってくる。さっきまでの息苦しさから解き放たれていくようである。  手前で立ち止まると、四角い窓枠から漏れる陽射しの向こうに自分達の勝手知ったる街並みが広がっていた。  さび付いた窓枠に手をやり、顔を覗かせてみる。  その瞬間、いきなり現実が降り注いできた。急に街の喧噪が聴こえ、生暖かい風が髪の毛の間を吹き抜けていった。  眼下にはいつもの知っている家並みが広がっている。だが、上空からの景色のせいか、なんとなくどこか知らない世界のようにも映った。  しばらく目を凝らして眺めていると、やがてそれは城から自分の領地を見渡す将軍か王様にでもなったような、独特な気分になってくる。  見下ろすと、下界では任務を終えたモレとブースケがマウンド辺りに座って笑っていた。 「あいつらー。こっちはまだ作戦決行中だってのいうに、のんびり休んでいやがって」 「よっしゃ、いっちょかましたるか」  荒ケンは手にしていたボールを軽くお手玉のように振り上げて笑った。  なんとなく、やろうとしていることは分かった。  二、三度肩慣らしをしてから荒ケンは二人めがけて投げつけた。  ポーンと弾けるような音が響いた直後に「うおー」という叫び声が上がる。  二人は飛び退いて周りを見回すも、飛んできた先は分からないようであった。  すぐさま顔を引っ込め、二人はしてやったりと笑う。 「あいつらのびびった顔ったらねぇな。晃二、今度お前投げてみ」  晃二は含み笑いしながら球を受取り、身を乗り出して大きく振りかぶる。  そして二人の真ん中に狙いを定め、思いっきり投げ下ろした。  白茶けたボールは二人の足下近くで軽やかな音をたて、大きく跳ねた。  またも大袈裟に驚く二人ではあったが、上方から飛んできたことで状況を理解したらしい。同時に2階を見上げ、奇声を上げた。 「やったぁ。成功したんだ」「晃ちゃん、すごいじゃん」  踊るようにはしゃいでいる二人の様を見ていたら、この作戦はどうやら上手くいったらしいということがやっと実感として伝わってきた。 「ほれ、どんどんいくぜぇ」  両手一杯に乗ったボールが目の前に差し出された。いつの間にか荒ケンの足下にはナップザックが置かれていた。 「ははは。よっし、やるか」  二人でボールを一つ一つ掴みだしては投げていく。  それは建物に封印されていた力を少しずつ解き放していくようで、すごく気持ちが良かった。  だが、傍目で見たら不思議な光景に映っただろう。なにせ窓からはボールが次から次へと投げ出され、下ではそれを受け取ろうと、右へ左へと走り回っているのだから。例えるなら運動会の玉入を逆からやっているようなものである。その光景とボールの跳ねる不規則な音が重なり、晃二には天からの授かり物を喜んではしゃぎ回っているお祭りのようにも見えた。 「あいつら、ピエロみたいやな」  拾ったボールをシャツの中に溜め、腹が膨れた状態でふらついている姿は、二人が真剣だったからこそ笑いを誘った。荒ケンも、わざとあちこちに投げているらしく、守備練習でも兼ねているかのようである。  半分ほど投げたところできり上げると、辺りにまた静寂が戻り、どこにでもあるような風景に戻った。聞こえるのは、大の字で寝ころんだ二人の、ぼやいている声だけである。 「いい汗かいたな。あいつらにもいい運動になったやろ」  荒ケンは清々しい顔で笑い、晃二の肩を叩いた。 「ほんじゃあ、そろそろ戻るとするか」  荒ケンは残ったボールを拾いながら侵入した窓に向かうが、晃二は最後の作業を思い出し、テーブルに戻った。  もう一度小っぽけな写真をじっと見つめた。女性たちの微笑んでいる目を見ていると、テレビに語りかけていた老婆の言葉を思い出す。 ― 家族と再会できていたらいいな ―  そんな願いを込めながら写真と便箋を抽出に戻した。  改めて部屋全体を眺めると西日で窓の影が奥まで伸び、最初の印象と違って見える。なんだか自分たちを受け入れてもらえたような気がした。 「さっ、長居は無用や」  荒ケンが短く口笛を吹くと、軽やかな音が部屋に響き渡った。 「そうだな。けど、またすぐ来ようぜ。今度はみんなでな」  ナップザックを担いだ晃二は、部屋の隅々をじっくりと見回した。  崩れそうなコンクリ壁と廃墟を支えているぶっとい柱、金網の中で立ち続けている人形。  ほんのわずかな時間だったが、この空間に親近感を抱いている自分に気がついた。 「そやな、まだまだ調査せなあかんやろ」荒ケンは肯いてから鼻をすすった。  金網の中に積み上げられたガラクタや、そして何よりもあの見えない力と闇に包まれたスロープの先が気になって仕方ない。だからきっと、きっと近いうちにまたやって来るであろう。  侵入した窓まで戻り、身を乗り出してあたり一帯を眺めると、北側の野原一面に光が差し込み、草が小さく風で踊っていた。 「なんかさっきと景色が違って見えるな」 「そうか? 気のせいやろ。相変わらずセンチやな。さっ、先に行けよ」  下半身から窓枠をくぐり、ロープを掴んだ際にふと振り返ると、自分たちの辿ってきた道のりの全貌が見渡せた。  草の刈られた直線の道、茶色く泥がむき出した崖、ゴミ溜の裏庭とその先にある倉庫の扉。 ― 長かったような、短かったような ―  今朝からの様々な出来事がよみがえってくる。突然の展開だったが良くここまでやれたもんだ、と我ながら感心した。  二人とも無事に野原に降り立つとひとまず大きく伸びをした。 「なんだかんだあったけど、上手くいったなぁ。ひと安心だよ」  洞窟や秘境から戻った探検隊もこんな安堵感、達成感を味わうんだろうか。 「思った以上にトントン拍子やったな。まぁ、ちょいとハプニングはあったけど、な」  場面場面のみんなの様子や表情を思い出すと笑いがこみ上げてくる 「さてと、あとは戻るだけやな」  自分たちが造った草の回廊を抜け、崖上に立つと眼下にウメッチの姿が見えた。  荒ケンは手際よく近くの樹の根っこにロープを巻き付けて崖に垂らし、二人は結わいた瘤を伝わってロッククライミングの要領で降りていった。                  5 「無事任務完了だな」待機していたウメッチがにこやかに出迎る。 「作戦成功や」 「諸君、ご苦労であった」  ウメッチは帰還した兵士をねぎらう大佐気取りで握手を求めた。 「なに、偉そうに。監督ぶってるんじゃねぇよ」 「元々は俺の案なんだからいいじゃねーか。で、中はどうだった?」  二人は顔を見合わせ、含み笑いをした荒ケンが勿体ぶって話す。 「すげぇぞ。体育館並の広さやけど、がらんどうでな」「うまくやりゃ、こん中を基地にできるぞ」「まぁ、後で詳しく話すからよ」  ふーん、後でって……。ウメッチはちょっと不満そうな顔を見せたが、晃二の背中を見るやいなや、コロッと顔を綻ばせた。 「すげぇな、まだザックにこんなに入ってんのかよ」 「なぁ晃二。いったい全部で何個ぐらいあると思う?」 「まぁ三十五、六個ってとこじゃねぇの」 「いや、オレはもっとあると思うな」 「じゃあ、賭けるか」 「それよっか、帰り道の準備や」  二人の賭け話をさえぎって、荒ケンは最後の道具、ペンチと軍手を取り出した。当初の計画では、来た道、つまり倉庫を逆側から抜けるのは無理なので、広場と接するフェンスを乗り越える予定だった。上部のバラ線が広場側に傾いているので向こうからは乗り越えられなかったが、こちら側からだとちょっと細工をすれば可能に思えた。しかも三河屋からは積み上げられた木箱で見え難くなっている。  辺りを見回した荒ケンは素早くひょいと登っていき、バラ線の二カ所を切った。そして切れ端を別のところに巻き付け、そのまま軍手で前後、上下に引っ張ってみた。  すると、キイキイと耳障りな音をたて、下の二本が少しずつずれていく。 「いい感じじゃん」二人が見守るなか、慎重に続けていくと、やっと子供なら抜けられるくらいの隙間ができた。 「こんくらいあれば大丈夫やろ」  荒ケンはその言葉を実証するように、身体を捻り、足から乗り越えていった。 「さっすが、元脱獄犯」  フェンス越しにウメッチがからかうと、「ええからお前らも早くシャバに出て来いよ」と笑って言い返した。 「これなら次からは無茶しなくて済みそうだな。晃二」 「あぁ、俺達は平気だけど、ブースケは無理じゃねぇか」 「あいつじゃ無理無理。これも崖も窓も全部をちゃんとクリアできなきゃ入っちゃ駄目ってことにしようぜ」「自分の…力だけで、はぁ…難関は、はぁ…乗り越えていかなきゃな」  長い身体を折り曲げ、顔を歪めながらウメッチはバラ線の隙間で格闘していた。  最後の障害を無事乗り越えて自分たちの世界に戻った三人は、泥や錆びで手と顔を茶色くして、まさに脱獄してきたような風貌だった。 「晃二さ、背中にくっきり靴の跡がついてるぞ」  ウメッチが笑いをこらえながら指差す。 「へ、へ。そんなの分かってるよ。お前にもばっちりついてるから」 「うそ、あちゃー」  ウメッチは背中を見ようとクネクネもがいた。 「お前はオカマかよ。こんなの水道で洗えば帰るまでには乾くよ」  互いの汚れを見て頷き合うが、まずは二人が待ちくたびれているであろう砂場に向うこととする。  午前中の強風は一体なんだったんだ、と疑うくらい穏やかな時間が流れていた。かなり時間が経っているのではと思われたが、きっとまだ3時くらいであろう。  砂場では中央に戦利品のボールが集められていた。帰りを待っている間、時間を持て余していたのだろう、ボールたちは丁寧にピラミッド状に積み上がっていた。 「うわぁ。すげぇ数だな。ザックのと合わせて数えてみようぜ」  ウメッチは宝の山を目の前にして興奮している。  みんなが注目する中、晃二がピラミッドの上でザックを逆さまにすると、ボールは下のとぶつかり合って一斉に弾け、生き生きと四方に散っていった。 「山分けだからな。わかったかウメッチ」  話なんか聞いちゃいない。ウメッチは目の色を変えて集めては、いそいそと数えだした。 「四十二個だ。ほらみろ、オレの勝ちだな」  おそらく随分と昔に飛び込んだボールも混ざっているのであろう。予想以上の数であった。  ウメッチが高らかに笑うのをよそに、晃二は一つ一つボールを手に取り、じっくりと調べていた。 「すげぇな。幾らくらいになるんだろ」 「まっ、二千円ってとこかな」  さも自分の予想通りだと言わんばかりにウメッチは答える。 「どうしたんや」  真剣にボールを調べている晃二に荒ケンは言った。 「いやぁ、自分のボールがないかなと思ってさ」  晃二はボールに書かれているはずのA・Kのイニシャルを探していたのである。そう、誕生日に貰ってすぐに放り込んでしまったあのボールを。  すると、つられてみんなも一個一個手に取り、しげしげと眺めだした。 「おっ、これ荒ケンのじゃん」 「どれどれ見せてみ。ほんまや」 「この汚れかたは、どう見てもモレのだな」  みんな普段から、小さな傷や汚れなど、些細な特徴だけで自分のボールを見分けられたので、思ったより容易かった。  やがて、凹みを三カ所マジックで塗りつぶしたウメッチのボールや、油が模様のようについたブースケのボールなど、三分の一近くは本人のものと判明した。だが結局、晃二のボールは含まれていなかった。 「やっぱ、ねーか」  ひと通り見終わってからぽつんと呟いた。残念であり納得いかなかったが、あの中のどこかにあることは確かなのである。  金網の中か、もしくはあの闇を転がって……。想像しようにも謎が多い。 「また今度入ったときに探そうや、どっかにはあるんやから」  晃二のボールに対する想いを察したのか、荒ケンはそう言って慰めた。 「なに、また入るつもりなの? じゃあ今度はオレも入りたいな」 「デブには無理だって。逆上がりもできないくせに、よく言うよ」 「うるせぇな。お前みたいなチビには崖登りは無理だよ」 「なんだとぉ」  いつもの掴み合いが始まる。 「まぁまぁ。二人ともやめろよ。次はみんなで侵入しようと思ってるけど、最初のうちだけだぞ、手助けすんのは」 「こいつらなんかほっといて、早く中の様子聞かせてくれよ、晃二」  ウメッチの言葉に二人は動きを止めた。 「なになに、どうなってんの中は? 怖くなかった? それとも…」 「それよっかさ、戦時中の宝とかありそうだった?」 「オッケー、わかったわかった。でも、じらすわけじゃないけど、その前に身体を洗わせてくれ。もぅ泥と汗でべとべとだ」 「よっしゃ。そんでもってペプシで乾杯でもしようや」  ひとまず水道で水を浴びてから、仕事をやり終えた褒美に渇いた喉を潤すことにする。  気がつくと、日が僅かに傾き始めている。倉庫で窮地に陥っていたのが随分前のことに思えた。  洗ったランニングやTシャツを振り回しながら花壇に戻ると、紙のケースに入った瓶を高く掲げてウメッチが高らかに叫んだ。 「さぁ、勝利の美酒で乾杯するぞ。つまみもあるでよ」  何かと思えば、よっちゃんイカと都こんぶであった。 「さ、遠慮なくやってくれ」 「うわぁ、ウメッチの奢りだなんて、ありがたいね」  顔を綻ばせてブースケが言うと、「ちっちっちっ。ボールの売上金からの前払いだよ」と、さも当然とは言わんばかりにウメッチは胸を張る。 「このボールを売った金は、今後の野球で使う道具や―」  そうウメッチが演説ぶっている間に、みんなは相手にせず飲み始めた。 「うわぁ、最高だな。生きててよかったって感じだな」 「ブースケ、お前、じじいかよ。うちのとーちゃんみたいなセリフ言って」  モレはそう言って笑ったが、晃二も実際そう感じた。炭酸の刺激が喉を伝わり落ち、身体全体、細胞の隅々から生き返ったような、清々しさを感じていた。  きっと、風呂上がりのビールを呑むときも同じ感覚なんだろうな。一日の疲れを癒す、晩酌時の父親の姿が目に浮かんだ。  気がつくと暑さも弛み、電柱の影も近くまで迫ってきている。  一通り落ち着いた頃、晃二は今回の成り行きを最初から追って説明していった。  思い返せば、いろんなことがあったんだと、今更ながら感心してしまう。  酒工場の突破、崖の登頂、荒地の開拓、米軍エリアへの不法侵入。自分たちのなし得た功績を称えるように、あえて仰々しく語っていった。それでもみんな大袈裟だとは思っていない。初めは難攻不落と思われた砦からのボール奪還作戦に何はともあれ成功したのだから。  もちろん、いくつもの事件やドジを踏んだこともあったが、今となっては笑い話であると言うか、口喧嘩の際の貶しネタになる程度のことだ。  説明の一つ一つを食い入るように聞いていた三人は、各自さまざまな想いで建物の内部を想像しているようだった。 「だろぅ? 上手くやりゃ新しい陣地にできるって」  すでに次にいつ侵入するのか、どう使っていくのか、という話まで膨らんでいる。 「陣地かぁ…」荒ケンの言葉に晃二はくすぐったさを感じた。 「おお、いいじゃんいいじゃん。俺たちの新たな領土かぁ」  今の自分たちには自転車で行ける範囲が領土であり、世界であった。だが、そこに至るまでには様々な経緯があったと思う。  遊び場は、最初は家の近所から始まり、町内、そして学区内へと成長とともに広がり、変化してきていた。思い起こすと最初に外の世界を感じたのは、一年生の頃、知り合いの小父さんにせがんでダンプ乗せてもらった、あのときだと思う。それは単に、隣の山手住宅地までの短い距離だったが、高い運転席から見たよその町の景色は全く違う世界に映り、興奮しっぱなしだったのを憶えている。たかが、と言われるかもしれないが、あのワクワク感は現在でも強く印象に残っていた。その後、三年生になると、市電に乗って元町とか中華街に文房具やワームイ(乾燥梅)を買いに行ったり、国電を利用して関内にあるナショナルショールームにアイドル歌手の8トラテープを聴きに通ったりしたものだった。そうやって目的や手段を代えて行動範囲を広げてきたのである。  母親からは「危ないから遠くへ行くな」と言われていたが、どこまでが遠くて、何が危険なのか分からないので、それを知るためにもと、理由をこじつけてどんどんと行動半径を広げていった。黙っていてもバレてしまうことがあり、「しかたないだろう。元々、男は好奇心や征服欲が強いんだから」という父親の言葉に何度か助けられたものである。  現在は、念願の十二段変速の自転車を手に入れ、さらに足をのばして様々な場所の開拓に精を出していた。そんな領土拡張を繰り返していくに伴い、危険もやはり増えてくる。それらは他校との喧嘩だったり、在日とのいざこざだったりしたが、行ってはいけない地域や、注意が必要な通りなどは、親に言われなくとも自然に分かってくるものである。「ちょっとぐらい痛い経験してこそ、危険を察知する嗅覚や対応能力が研ぎ澄まされてくるもんだよ」そう言っていた父親の言葉が今では理解できた。 — でも、果たして、どっちなんだろう —  晃二は、この観覧席が危険区域に入るのか、それとも手中に収めた領土となり得るのか、いまはまだ判断できなかった。  特にあの、1階のスロープの先が気になって仕方なかった。あの地底に続くような闇の先に一体何があるのだろう。そして、金網の中に積み上げられた箱を開けるとどんな物が出てくるのだろう。  畏れと不安と好奇心が綯い交ぜになっているが、まずは次の新しい世界となる居場所を手中に納め、それから考えればいいのだと開き直った。 「自分たちだけの世界…か」晃二は小さく呟いた。 「そや。俺達だけの、な」  今となっては奇妙な時間であり体験であったが、不思議なもので、おばけ観覧席と初めはあれだけ恐れられていた建物も、一度踏み込んでしまえば何ということもなく、逆に、落とし取った要塞のように誇らしげに思えてくる。 「よしゃ、最後になる夏休みはここで過ごすとするか」  そう言って腰を上げた荒ケンに続いてみな立ち上がり、目の前の古びた観覧席を見上げた。  割れた窓ガラスの破片が夕日に反射し、鈍いきらめきを放っている。それは建物自身が眠りから覚めて微笑んでいるように、なぜか晃二にはそう見えた。  思い出したように一陣の風が吹いてきて小さく埃が舞った。  だが、それを気に留め者は誰もおらず、ただ黙って見上げた姿勢を保っていた。  その五人の姿はさながら、自分達の砦を見守る兵士のように凛々しく見えた。
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