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終わりの六月、始まりの六月
「おめでとう!」
「おめでとーっ!」
真っ白いタキシードを着て、式場で皆からの祝福を受けるあいつを、俺はただぼんやりと眺めていた。
「林! 来てくれてありがとな!」
白い歯を見せてあいつは俺にそう言った。
俺はいつもの調子で返す。
「ん。おめでと」
冷静を装ってグラスを傾ける。中身のアルコールは零れていないのに、俺の一張羅のフォーマルは、ぐっしゃりと悲しみで濡れていた。
***
「林さん、資料できました」
「ありがと。もう上がって良いよ」
「でも、先輩より早く帰るってのも……」
「今日は俺も早く帰るから」
「そうなんですか? じゃあ、駅前の居酒屋行きません? 先月オープンしたとこ!」
「いや、遠慮しとくよ」
後輩の誘いを断って、俺は受け取った資料に目を通す。後輩は少し残念そうに肩を落とした後、鞄を提げて「お先です」と言ってフロアを出て行った。
俺は首をぽきりと鳴らして、パソコンの電源を落とす。そして、ほの暗い窓の外を眺めた。
六月。
梅雨の真っ最中だが、今日は珍しく一日中晴れていた。鞄の中の折り畳み傘は、今日は使わなくても良さそうだな、と息を吐く。
――林!
ああ、頭が痛い。
三年前の六月の初めに、あいつは結婚した。
ジューンブライドが良いって彼女が言ったんだって、あいつは照れ臭そうに笑っていた。
……今頃、何をしているんだろう。
同じ市内に住んでいるのに、式の後から一度もあいつとは会っていない。
家庭を優先しているのだろう。共通の友人からあいつのSNSには奥さんとの写真でいっぱいだと聞いているからそう思う。仕事も出来て、家族思いで……良い奴だよな。そんなあいつに、俺はまだ未練たらたらだ。馬鹿みたいに、忘れられない。
あいつと俺は、高校からの付き合いだ。いつ、どうやって惚れたかは覚えていない。気が付いたら好きだった。毎日、馬鹿なことで騒いで、肩を組んで、だらだら喋って……そんな日々がずっと続けばいいのにと思っていた。
大学も同じところに進学して、付き合いは就職してからも続いていた。職場は違ったが、金曜日は必ず酒を一緒に呑んだ。
いつか、告白しよう。
そのいつかは、一年になり、二年になり、三年になり――。
勇気が出なくて先送りしていたある日、あいつは、俺に、言ったんだ。
――実は、結婚することにしたんだ!
あいつが奥さんのものになってしまってからは、俺の毎日はぽっかりと心に穴が開いてしまっている。
あの六月の日、俺のすべては終わってしまったんだ。
***
ぼんやりとしていたら、スマートフォンが震えていることに気が付かなかった。
会社の出口で何となく画面を確認したら、不在着信が三件も入っていた。電話の主は……。
「林!」
「っ!?」
どういうことだ。
目の前に、あいつ――佐藤が居る。
久しぶりに見たその姿は、やつれていて体調が悪そうに見えた。スーツを着ているからおそらく会社帰りなのだろう。俺は急いで彼のもとに駆け寄った。
「久しぶりだな。どうしたんだよ?」
「どうしたも何も、電話出てくれなかっただろ?」
「ああ、悪い。気が付かなくて」
「だから、来ちゃった」
「来ちゃったって……」
「それよりさ、夕飯まだだろ? ファミレス行かない? 奢るから!」
「……」
何か相談がある時、いつだって佐藤は俺をファミレスに誘う。
いったい、何があったんだよ。
俺は黙って頷いて、先に歩く痩せた背中を追いかけた。
「ビールと、ディナーセットのAで!」
「じゃ、俺も同じので」
近くのファミレスに入った俺たちは、先に運ばれてきたビールで乾杯して喉を潤した。一日働いた身体にアルコールがしみる。けど、その余韻に浸る余裕は佐藤には無いようだ。何かを言いたそうにそわそわする彼に、俺は訊いてやった。
「何か相談だろ? どうしたんだよ」
「あ……」
「ここまで来て何もないなんて言わせないぞ?」
「ん……実は、その……離婚、しました……」
「へぇ……は? 離婚!?」
思わず叫んでしまった俺を、近くの他の客がちらりと見る。俺は咳払いをしてから小声で奴に言った。
「……何で? 夫婦仲良いって他の奴が言ってたけど?」
「それがさ……何か、元妻の様子が変わったなって思って。服装とかも派手になってきてさ。それで、興信所に調べてもらったら……黒で」
「……浮気、された?」
「そう……近所の大学生と」
「な……」
俺は絶句する。
まさか、そんなドラマみたいなことあるのか? しかも相手は大学生? どうなってんだ?
佐藤は俯いて、ぼそぼそと口を開く。
「妻に問い詰めたら、もう俺との生活には飽きたって。今は若い浮気相手の将来を支えたいから離婚してくれって。ああ……もう意味不明だよ。今まで、大切にしてきたつもりだったのに……」
「その、ちゃんと責任とかは取ってもらったんだよな?」
「うん……妻の両親から慰謝料を貰った。大学生からは金無いから取れないって諦めたけど……あとは引っ越すだけ。けどさ、引っ越し業者の予約取れたのが来週なんだ。それまであの家に入るのは嫌で、今はネットカフェでしのいでる」
「……」
信じられなかった。
あの式の時、確かにこいつは幸せそうだったのに。
誰よりも輝いて、眩しくて――。
それなのに、今のこいつは痩せてボロボロだ。俺はふと、テーブルの上に置かれた佐藤の指を見た。そこには、もう、指輪は無い。
もう、こいつは、誰のものでもない。
なら――。
「……出よう」
「は?」
「帰るぞ。俺のマンション」
「えっ、待って!? まだ料理……」
慌てる佐藤の腕を引いて、俺は一万円札をレジに置き「急用で出ます。すみません」と断りを入れてから強引に店から出た。
「ちょ、林!」
「うるさい」
引きずるように俺は佐藤をマンションに連れ込んだ。
「な、何だよ……って言うか、引っ越したんだな」
「ああ。ちょっと前に」
佐藤と一緒に過ごしたことのある場所に居るのが辛くて、俺は一年ほど前にこのマンションに引っ越した。それなのに、今、この場所に佐藤が居る。変な気分だ。
「あの、林……」
「……」
「腕、痛い……」
「……悪い」
掴んだままだった佐藤の腕を解放して、俺は彼の戸惑いの色を含んだ瞳を見つめて言った。
「引っ越しの日まで、ここに居たら良い」
「えっ、でも……」
「なんなら、ずっとここに住めば良い」
「林、」
「俺を、頼れば良い」
勢いに任せて、俺は佐藤を抱きしめた。
腕の中で佐藤が息を呑む。
俺は、止められない。
溜めていた感情が溢れて、止まらない。
「俺だったら、お前のこと悲しませたりしなかったのに」
「何、言って……」
「俺だったら、お前のこと一生幸せに出来たのに」
「林、まさか俺のこと……?」
ああ、失ってしまう。
そう思った。
そう、ずっとそれが怖くて言えなかった。
「友達」の関係から気まずくなってしまうのが怖かった。
今も、俺は震えている。
佐藤が結婚してからの日々を、俺は一歩も成長できずに居たんだ。
「……林」
名前を呼ばれて心臓が馬鹿みたいに跳ねた。俺は小さな声で返事をする。
「……何?」
「俺のこと、好きだったの?」
「……ああ」
「そっか」
「……悪い」
「俺も、ごめん。気が付かなかった」
そっか、そうか……ぶつぶつと佐藤はそんな言葉を口にする。
言ってしまった。
俺は、後悔で真っ白になった頭で佐藤を解放して、リビングに進んだ。そして、結婚式の時のように、冷静を装って佐藤に言う。
「奥の部屋、空いてるから使えば良い」
「……は?」
「そうだ飯……作るからソファー自由に座ってれば良い」
「ま、待てよ! さっきの……続きは?」
「続き?」
首を傾げる俺に、佐藤はどしどしと近付いてきた。
そして、俺の背中に抱き着く。
突然のことに、俺の頭は動かなくなった。
「……ずるいよ」
「……何が?」
「俺は、離婚したてて、自分で言うのもなんだけどボロボロだ」
「そうだな」
「そんな状態の俺に、あんなこと言うのはずるい」
回された腕に力が入る。
震える声で佐藤は続けた。
「……急に、好きとか言われてびっくりしたけど」
「うん」
「けど、嬉しかったし、何より、信頼できる林だし」
「つまり、その……」
「佐藤?」
「だから、さっき言っただろ……幸せにするとか、しないとか……しろよ! 俺のこと、幸せに、その……しても、良いよ?」
「……ぷは!」
何だよそれ。
思わず吹き出してしまった俺の背中に、ぐりぐりと佐藤は頭を押し付ける。
「笑うなよな! 俺だって、分かんないんだから!」
「分からない?」
「だってさ……俺たち友達だし、会うの久しぶりだし、でも俺はときめいちゃったし……」
「そう」
「そ、それに! 頼れって最初に言ったの林だからな! だから、その、いろいろと……お世話になります」
「良いよ。ここに居ろ。それから……」
抱き着く佐藤を剥がして、正面から抱きしめ直す。
「本当に、幸せにするから」
「や、約束だぞ!」
「ん。勿論」
もう二度と離さない。
もう少し早く俺が勇気を出せていたら、佐藤は悲しい思いをしなくても良かったのだろうか。正解は分からない。けど――。
「好きだ、佐藤」
「……うん」
腕の中のこいつを、俺は絶対に幸せにする。
臆病だった今までの自分を捨てて、俺はそう心に誓った。
これからは、ずっと二人で居よう。
今年の六月は、俺たちの始まりの六月になった。
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