熾火

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 二人で朝を迎えるときはどちらも髭が伸びているのが常で、俺はよくあの人の髭を剃ってあげた。  俺はそう酷くないけど、戸倉さんは最低でも一日に一度は剃らないとすぐ目立つ人だった。  彼の髪質はまっすぐで強いから、髭もそれを反映しているのかけっこう腰がある。それをシェーバー嫌いなあの人は安全剃刀で強く剃るものだから、たいていはどこかに小さな傷を作っていた。一度はワイシャツの襟に血が付いたほどだ。  見るに見かねて、俺がやってやるよと提案したのは、こういう仲になってから二ヶ月もしないうちだった。  自分で自分の顎を剃るから遠慮がないのだろうけれど、俺がやればもっと手加減するし、怪我もしないだろうと思ったのだ。  朝、二人でシャワーを浴びるついでの時に、早速実行ということになった。 「坊、出来るんか?」  半ば湯を張ったバスタブに戸倉さんを座らせて、シェービングクリームを顎に塗って行く俺を、彼がからかった。 「出来るよ…憚りながら、あんたの身体を大事にすることにかけてはあんたよりも俺の方が絶対に上だからな」 「かも知れへんな」 「ほら、黙って…始めるよ」  それを合図に、戸倉さんは目を閉じる。  本当は、怖かった。安全剃刀だから大丈夫とは判ってても、万一この人を傷付けたらと思うと、手が震えて。  でもそれを押し隠して、頬から始めた。  意外と刃はすんなりと滑りよく降りたので、それに力を得て、とにかく丁寧に顎も剃っていった。  時間は本人の倍掛かっていたと思う。  どうにか剃り終わってシャワーで洗い流し、目を開けてと促すと、あの綺麗な瞳がちょっと瞬いて、坊、下手な床屋より上手やなと笑った。 「判んないよ…ほら、こっち向いて…痛くなかった? 剃り残しがあるかないか、確かめてみてくれよ」 「いや、ええ具合やで…俺がやった時みたいにひりひりせえへん」 「そりゃ力任せに剃るからだよ――良かった、傷もないね」  俺は子供を扱うみたいに戸倉さんの顎を支えて、あっちこっちを確かめて、それから額に唇を当てた。 「今度から急がない時は俺がやるよ、そうしたらもう怪我しなくて済むから」 「そうやな…こんな色っぽい床屋さんは次からもぜひ指名したいで、俺は」 「ちょっと!」  彼の目が何を見ているかは考えなくても判る。俺の腰に巻かれた、小さめのバスタオルだ。  だって仕方ないだろ、風呂場なんだから。  剥ぎ取られるのを制止できず、剃刀も洗面台に戻されて、俺はあの人にまた抱かれてしまい、初回の代行髭剃りは俺がのぼせ寸前に陥るという散々な結果になった。  けれど、それからもあの人は俺に剃って貰うのがお気に入りになったらしく、しょっちゅう洗面所に呼んではそうさせていた。  一度は、俺がそうしてもらったこともある。  軽い追突事故の日から二ヶ月経った秋の頃に、たまには俺がやってやるわと先に剃刀を取り上げたのだ。 「坊、座ってみ…お前のは全然目立たへんから、剃る手応えが判らんかも知れへんな」 「いいよ、適当にやってくれたら」  彼になら怪我させられたって平気だ。プレッシャーにならないように、俺はとりわけ気楽な口調で答えた。  判らへんと言っていた言葉とは裏腹に、泡のついた俺の頬に剃刀を当てるなり、戸倉さんが集中力を研ぎ澄ませているのが感じられた。俺を一ミリたりとも傷付けまい、それでいて丁寧に剃ろうと、それだけに没頭し切っているのが。  こんなに彼に大切にされている――その愛情が泣きたくなるくらい伝わると同時に、だから彼は俺が剃るのがお気に入りだったのかと悟った。  俺だって彼に怪我をさせまいと、自分以上にいつも大切に剃っている。  その心遣いを戸倉さんは俺と同じように受け取り、喜んでくれていたのだ――  剃り終わり、顔をバスタブの外に出させてから洗い流すと、戸倉さんはふと呼び掛けた。 「坊」 「ん?」  向き直ると、安全剃刀の刃が俺の喉元にそっと当てられた。 「お前、もしかしたら俺の手許が狂ってお前を傷付けるかもしれへんのに、平気でそうされとったな」 「だって戸倉さんに限って、絶対にそんなことはないから」 「せやけど万が一いうこともあるで…それに俺がお前を殺そうとする意図持っとったら、これは千載一遇のチャンスやしな」  それを裏付けるかのように、刃がちょっと喉に喰い込み、戸倉さんの黒い瞳が妖しく光る。  けれど俺は微笑んだだけだった。 「いいよ、戸倉さんに殺されるなら、俺にはそれが理想の死に方だよ」 「綾人」 「前に言ったよね、あんたが死んでも後を追うなって…だから、一緒に死ねないなら俺はあんたより先に死にたいよ」 「私が先に死ねばよかった、この目に遭う位なら、か」 「うん」  有名な科白を呟いて、戸倉さんも微笑んだ。  剃刀を引くと、それまで刃を当てていた場所を労わるように撫で上げる。 「坊…お前にはいつも驚かされる、ほんまに気概のある子や」 「戸倉さんが好きだからだよ――それが俺の全てだ」  臆面もなく言った俺の唇を、ゆっくりと彼のそれが覆う。  それからうなじに移ると、耳元で低い声が囁いた。 「俺もな…お前に何事かあったら、きっと生きて行かれへん…綾人、俺にもお前が全てや」  俺たちは同時に相手の背を抱き合った。
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