熾火

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 俺の親父は大阪でサラリーマンをしていた。  有名企業の課長職で、暮らしに不自由はしていなかった。俺を東京に下宿させ、開成高校に行かせる余裕があるくらいには。  だけどどこに落とし穴があるか判らないものだ。  遊び場なんて足を踏み入れたこともなかった堅物の親父が、付き合いでたまたまクラブに行ってしまったのが間違いだった。  そこは大阪最大の組織である柏木組が陰で経営している賭場も兼ねられていて、親父はたちまちにギャンブルに嵌ってしまった。もともと嵌りやすい性質でもあったのだろう。散々負けに負けた挙句、気が付いた時には家も土地も抵当に取られ、俺への仕送りなんて不可能な状態になった。  母も父の様子がおかしいのは知っていたけど、まさかヤクザの賭場で足を掬われているなんて想像も付かないから、止めようとしても間に合わず、父も母の嘆きでようやく目が覚めたものの、何もかも手遅れだった。  会社は退職したが、退職金でも追い付かない借金の山。  家土地は取られても俺を卒業させようと母が決意したのもつかの間、父が同時期に身体の不調を訴え、病院の精密検査で腎臓癌であることが判明したので、止むなく母は俺に事情を連絡し、俺は驚いて東京から急いで実家に帰った。 「綾人、お前に心配は掛けたくなかったんや…せやけど父さんが病気となると、いくらなんでもお前に黙っている訳には行かへんかったから…どんなにしてでもお前に勉強を続けさせるからね、それだけは…親の都合で子供の将来まで台無しにしたらあかんやろ」  俺はとっくに学校を辞める事を決意していた。  母一人に苦労を掛けるわけには行かない。下宿生活で身に付いてしまった標準語で、心配するなと母を宥めた。 「構わないよ俺は、学校なんていつでも行けるんだし――それより家と土地だけで足りるの? 足りない分は俺が働くから」 「何を言ってるんや、お前が働いたりなんかせんでええ…家と土地で足りるから、大丈夫や」 「だけどどのみち住む家もなくなるし、父さんの入院費用だって要るだろ? 学校辞めて働くよ」  不甲斐ない父への腹立ちと、母への労わりを籠めてそう話し合っていた時、ヤクザ達が押しかけて来た。  父はとっくに病院に入院しており、その手続きと看病で母が走り回っていて不在がちだったので、家の権利書を持って来ないことに業を煮やしたらしかった。  その時の恐怖は、未だに俺の中に残っている。  玄関の錠は別の鍵で開けられ、いかにもその筋らしき中年男や若い奴らが五人、簡単に家の中に入って来た。  これまで安心し切っていた安全の脆さに、俺は竦み上がった。  母は真っ青になっていたけど、俺を庇うように立ち上がり、壁際に一緒に下がった。  そんな母を見るなり、中年男の一人が野卑な笑いを浮かべた。 「おい、あの男にゃもったいない程の別嬪だな」 「言えてるぜ、貰って帰りたいくらいだ――おい小僧、良かったなあ母親似で」  男達が母を嘲笑する中、俺は必死で母に手を出されないようにしていた。  母は若い頃は近所でも評判の美人だったし、ヤクザ達がどういう目で母を見るかなど、予測は付いていた。  案の定、若い男の一人が俺をいきなり突き飛ばし、母の身体に手を掛けた。  俺はすぐに起き上がって男の腕と懐を取り、学校の授業で習っただけの柔道の技で背負い投げた。無我夢中だった。 「このガキ!」  皆の注目が母から俺に集まった。  半殺しなんて覚悟の上だ。母からこの下品な奴らを引き離せるなら何でも良いと俺は思っていた。 「何しとるんや、お前ら ! ! 」  本能的に両腕で頭を庇って身構えた時、鋭い一喝が入口から飛んだ。  男達が一斉に動きを止め、凍りついた。 「誰が女房子供に手ェ出せ言うた、俺はそんな事は一言も言うてへんぞ」 「ですが若頭、こいつが田所をぶん投げやがったんで…」 「相手に意趣返しする前に、高校生に背負い投げされた手前の腐れ根性叩き直して来い、話はそれからや ! 」  すごい迫力だった。  男達もすっかり腑抜けていて、こっちの事なんて二の次になっていた。  その隙に俺は母の側に駆け寄り、しゃがませて庇った。 「女子供に手出さんと金も取り返せんような能無しは、うちの組には要らん――ここは一等地や、家と土地獲ったらそれで済むやろうが? それを馬鹿な考え起こして手出ししようとするから、そないな無様な目に遭うんや。えらい時間かかって何事や思うたら、余計なことをしくさって」  心底軽蔑しきったように吐き捨てると、母を庇う俺に近付いた。  母をぐっと引き寄せながら男を睨み据えると、そいつは低い声で笑った。  二十代のように若くはないが、それが逆に男盛りを印象づける、苦みばしった好い男だった。 「坊、歳は幾つや」 「十八」 「開成に通うてると聞いたが、秀才なんやな」 「………」 「それでうちの田所ぶん投げる言うたら、大したもんや――まだ型は決まってへんかったから授業で習うてる程度やろうが、筋がええと見える」 「―――」  男は面白そうに、今度は声を上げて笑った。 「面構えのええ子や――本当なら借金はチャラにしてお前を貰いたいぐらいやけどな、開成に行くような頭の子は、俺らの世界に入れるには惜しい…金がなくなろうが精神は汚れん、けど金があったところで裏の世界に入ったら最後、どこまでも堕ちるもんやからな」  自嘲的な声でそう呟くと、家と土地の権利書は持って行く代わりに人間に手は出させへんと言い切った。  これ以上の抵抗は無駄と知った母が差し出した書類を受け取ると、若い男たちをもう一度馬鹿もんがと叱り付けて、男は皆を連れて出て行った。
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