熾火

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 馬鹿言うな、この野郎と叫んでやりたかった。  今さら何だ、あんな店経営させといて、権利書も獲って行って、その言い草は何だと。  それで済まなかっただ?  親父もたしかに悪いが、人の家庭をめちゃめちゃにした後で悪かったなんて言う奴は最低だと怒りをぶつけたかった。  けれど男の口調には、完全に苦い悔恨の響きがあった。  それはあの時、『金があっても裏を知ったら堕ちる所まで堕ちる』と言ったのと同じだと俺は気付いた。  こいつは…渡世人稼業を嫌っているのか?  若頭と言われているからにはたぶんそれ相当の地位にも居るだろうし、歳からしても四十代のようだし。  なのに――  喉まで出掛かった罵声は、男の哀しそうな瞳で完全に止まった。 「坊――綾人いう名前やそうやな」  こっくりと頷くと、男は手を差し伸べて、隣へ来いと示す。  優しい仕草だった。  本当にこいつはヤクザなんだろうかと思えるくらいに優しい身振りだったから、俺は操られるように自分の座っている所から立ち上がって、彼の右側に腰掛けた。大きなソファは、身長が180cmはとっくに超えているこの男と、178cmの俺が座っても、まだ二人ぐらいは座れる。 「浮世の憂さは大抵酒で晴らすことにしとるんやが、それでも晴らせんものもある…この歳になるとそんなもんばかりや、どうもあかんもんやな」  誰に言うでもなくそう呟いてグラスを置くと、俺の手を取った。 「…手が荒れとるな、こんなに指先も硬うなって…何も知らん、温室育ちの坊やったのになあ…慣れん世間の風は辛いやろう」  俺は唇を噛んで、それには答えないようにした。  たしかに、辛かった。  高校まで勉強と部活がすべてだった俺は、明日の食事に困るという経験をすることになろうとは思っても見なかった。  受験戦争のエリートとして生きて来た俺には、まさに急転直下。生きて行く苦しさを身に沁みて体験させられた。  食べるのが精一杯で、独りの寂しさを考える余裕はなかったけれど、親戚の冷たさを始めとして、この一年足らずで自分は一人ぼっちなのだという事実を嫌というほど経験して来た。  口に出して肯定してしまったらおしまいだ。  崩れてしまう。  だから俺は絶対に返事をしなかった。  辛いと言うことを自分自身にも認めたくなかった。  男は俺の手を持ち上げると、指先を口中に含んだ。  強いアルコールを乗せた舌が、重い荷物を持ち疲れてひび切れた肌をそっと舐める。 「あっ…」  心臓が跳ね上がった。  針を指してしまったり、包丁で手を切った時に自分で舐めた経験はあるが、他の人にこんなことをされるのは、初めてだ。しかもこの男相手だと、なぜかよけいに動悸が激しくなる。 「や、やめろ…何すんだ…」  あわてても、手首を掴まれたままその動作はゆっくりと続く。  恥ずかしい。  どうしてこんなに身体が熱くなるんだろう。  やっと離されると、俺は急いで手を引っ込めた。文句も思い付かず、黙って抗議を示すのが精一杯だった。  男は、やっぱり手が荒れとると寂しそうに言うと、再びグラスを取り上げる。 「坊は酒で憂さが晴らせる方か?」 「まだ俺は未成年だぜ、十九じゃ酒は違反なんだから、飲んだ事なんかないよ」 「十九か…そうか、坊はまだそんなに若いんやな」  それやのに俺は、と男は聞き取れないような声で言うと、酒の飲み方を教えてやろうと告げた。 「飲み方?」 「十九ならもう構へんやろ…こっち向いてみい」  視線を合わせた瞬間、後頭部をゆっくりと引き寄せられる。  これは……  いくら奥手の俺だって、何をされるかは判った。  唇が重なる予兆を、俺は嗅ぎ取っていた。  それでも逃げなかった。  導かれるままに塞がれ、アルコールと舌の侵入を許した。  喉を灼きながら、ブランデーが身体の中に下りて行く。  何故避けなかったかというと――俺は彼の魅力にすでに屈服していたからだ。  こんな魅力的な男は、今まで見たことがなかった。男惚れするような好い男という表現を読んだことがあるけど、本当に、男盛りってこういう奴のことを言うんだろうと思った。  身体つきはもちろん精悍だが、精神の上でも本物の大人だったのだ。  舌を吸われ、貪られる度に身体が一層熱くなる。  酒の芳醇な酔いもそれを手伝い、制御の箍が外れる。  唇が離れた後で、男が俺をそのままソファに押し付けた。  もういい。  男が男に身体を売るって言うのは何となく聞いたことがある。俺だってそうなるんだろう。  俺の家族をばらばらに壊した相手だという厭悪感を上回る、俺自身の欲望があった。  どうされてもいい。  この男相手なら、どんなになっても。 「ええんか…ええんか、坊…」  狼狽えたように囁かれる声に、瞳を閉じて抵抗を示さないことで俺は答えた。  男はなおも躊躇いながら俺のシャツをはだけ、ジーンズも何もかも落とす。  首筋から鎖骨、胸元と、隈なく舌先が辿った。  左手で俺の頭を支え、右手で背中を撫でて来る。  そうする合間にも、唇の動きは止まない。  特に胸元は丹念に辿られるうちに、情けない声が出てしまった。  腰から足の付け根に男の右手が伸びて、俺の理性を掻き乱す。  女でさえ抱いたことがない俺なのに、男にこうして抱かれるなんて、考えてもなかった。 「は…あっ…」 「坊――ほら――」  限界がすぐに近付いた。  胸を嬲られながら一方でもっと敏感な所を責められて、喘ぎしか出ない。  涙が滲む瞳を開いて両肩を掴み、男の切れ長の瞳を見上げた。 「なまえ…」 「え?」 「あんたの…名前…」  俺の言いたいことを察したのだろう、彼は泣き笑いのような顔をした。 「戸倉…戸倉英志や」 「とくら…さん…もう…」  この人の名前を呼びたかった。  呼びながら果てたかった。  そして何度も呼べないうちに、俺はソファの上で達してしまった。
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