熾火

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 寝室に連れて行かれた。  部屋の照明がなくても、この人には勝手知ったる我が家というわけで、俺を抱いたまま暗闇をすたすた歩いて行き、そっとシーツの上に下ろす。  彼も――戸倉さんも服を脱ぐ音がする。  待つのって、こんなに恥ずかしいんだな。  抱かれる予感に、心臓が破裂しそうなほど鼓動が打った。  逞しい身体が覆い被さって、接吻して来た。  俺も舌を絡めて応えると、追い掛けるように戸倉さんが俺を組み伏せる。  シーツが擦れる音と、俺達が縺れ合う音。  その合間に、俺が彼の名前を呼ぶ声が響く。 「戸倉さん…いやっ…」 「坊、そんな可愛らしい声したらあかん…食べとうなるやないか」 「ちがっ…そんなの…ああっ…」  彼の指が俺の中に入って、宥めていく。  ローションを使っているのか、やわらかい香料の薫りが辺りに広がる。  もう声なんて全然抑えられなくて、涙は零れるし、乱れた悲鳴を上げるしかなかった。  真っ暗だからいいものの、そうでなけりゃ今の恰好なんて自分でも見たくない、ましてやこの人には絶対に晒したくないくらいに羞恥ものだ。  そうやって大事に慣らしてから、あの人は本当に俺を抱いた。  背筋から全身に熱がじわりと広がったその時に、ふっと両親のことが思い浮かんだ。  一家の大黒柱としての責任を果たせなかった事に苦しみ、窶れて死んでいった父。倒れたきり、そのまま安らかな寝顔で亡くなった母。  涙が突然溢れた。  ごめんなさい……  父さん……  母さん……  俺たちの家庭をめちゃくちゃにした一人なのに、俺はその人にこんな快楽を与えられてる。  今まで経験したこともない、骨の芯も融けるような悦楽を。  この人が好きなんだよ、俺……  ヤクザでも、家を、ひいては俺の将来も壊した人でも、それでも好きなんだ。  わけも分からないくらいにこの人に惹かれるんだ。  だから、怒るなら俺を怒って。  今のこのことで、戸倉さんに罪はない。  許して。  父さん、母さん……  全部忘れたかった。  目の前にちらつく二人の悲しそうな顔を。  戸倉さんに抱かれることを責める自分の心を。  いっそう彼にしがみついて、すべてをこの刻に溶け込ませようとした。  それに呼応したかのように、俺の身体の奥を侵略する動きが強くなる。 「戸倉さんっ、……!」 「綾人――」  人に抱かれて昇り詰めるという、初めての昂ぶり。  あの人が達した時に――俺も、身体の内に籠もっていた熱が、全部砕け散ってしまった。 ※ ※ ※  気がついた時、日は高く上がっていた。  寝室のカーテンは、二重になっている内の遮光カーテンだけが纏められていて、温かそうな光が室内に差し込んでいる。  あれだけ肌には汗が流れていたのに、いつの間にか戸倉さんがシャワーに入れてくれたようで、いい匂いさえした。  キングサイズのベッドで、羽根布団にくるまりながら、俺は思い切り大の字になった。行儀が悪いけど、戸倉さんはいないから大丈夫かと思っていたら不意にネクタイ姿で入って来られて、あわてて取り繕おうとしたけど遅かった。  彼がベッドに腰掛けて、穏やかに俺を見下ろしてくる。 「坊、起きたか」 「………」  俺は行儀の悪さをもぞもぞして誤魔化した。  部屋が明るくなると彼の顔立ちがよけいに判って、見ているこちらが気恥ずかしくなる。  顔の線が強い、男らしい顔。男ぶりが好いと言いたくなる、壮年の顔。  今にも標準語を喋りそうな、俳優みたいに洗練された風貌なのに、出て来る言葉はまるきりの関西弁だから、そのギャップが妙に可愛かった。 「腹減っとるんやないか? 食事は食べられるか?」  首を振る。  戸倉さんはどこか不安そうな瞳をしていた。  俺が自分を本当に好きなのかどうかと、判っているのだけれど確信が持てないと言いたそうな瞳を。  こちらの髪を撫でつつも、表情から真意を汲み取ろうとしているかのように、視線を離さない。    俺は判っていた。この人が俺を好きなんだってことは。  言葉に出さなくとも、手渡したコートを扱う仕草、手が荒れたと嘆いた声、俺を抱く時の優しい一連の所作。  たとえ形に表されなくとも、痛いほどに感じ取れたのだ。  でもやっぱり、言葉は欲しかった。だから、自分から口にした。 「戸倉さん…」 「ん」 「俺…あんたが好きだよ…」  きりっと締まった顔が、歪んだ。 「坊…俺は渡世人やぞ」 「いいよ」 「それに、坊の将来も、ご両親も、何もかも不幸にさせた組織のもんやぞ」 「構わない」  俺はきっぱりと言い切った。本当に良かったのだ。  両親への申し訳なさはあったけれど、それでも俺はこの人が好きだった。  母に手出ししようとした下っ端たちを一喝して止めてくれたし、決してこの人は下劣な人間じゃないことは知っている。  後ろ暗い仕事をしていてもそんな理性と高潔を失っていない人だから、俺は惚れてしまったんだ。  いきなりベッドの上の俺を抱き締めて、戸倉さんは低い声で言った。 「俺は阿呆や…坊がお袋さんを庇って俺を睨んだあの瞳を見たときから、よう忘れんなった…ほんまは借金の返済なんかいらんから、坊を連れて行きたい思うたんや、せやけど坊を組になんぞ入れる訳にはあかんから、我慢したんや」 「俺だってあの時から戸倉さんが好きだったよ」 「坊…なあ、考えてもみい、坊は俺より21も下や…俺の子供みたいな歳の男の子に惚れるなんぞ、ええ歳した中年男やのに阿呆もええ所や、自分で自分を何遍叱ったか判れへん」 「何だ、戸倉さんはまだ40歳なんだな」  びっくりして、彼は身体を起こした。 「坊、いったい俺を幾つや思てたんや?」 「そりゃ二十代とは考えてなかったけど、すごく落ち着いてるから、45歳くらいかと思ってた」 「45歳でも良かったんか」 「何歳でもいいよ、あんたなら…ひと回り以上離れてるなあ、よく考えたら」 「ふた回り近い言うた方がええで」 「んふ…でも恰好良いよ戸倉さん、ほんと――伊達男だね」  正直に褒めると、お世辞とは彼も受け取らなかったようで、唇が微笑んだ。 「坊、坊もな、ほんまに可愛らしいで…坊がぐっすり寝てる間もな、食べとうなって弱った位や」 「美味しくないよ多分…メシだってろくなの食ってないし」  つい口を滑らせてしまった。生活の苦しさを話したらきっとこの人は悲しむから、言わないって決めてたのに。  案の定、笑っていた戸倉さんの口元が辛そうに沈む。 「そうやろうな…一年も経ってへんのに、ずいぶん身体付きも違ってた…可哀想に、職場で苛められてるんと違うやろな」 「苛められてなんかないって、本当だって――支店長はすごくいい人なんだよ、中卒の俺だって雇ってくれたし」  ああ、ますます墓穴じゃないか。  高校を辞めさせたのも自分のせいだと、彼はさらに辛そうにしている。  俺って何でこうガキなんだ。  起き上がって、戸倉さんの膝に縋った。
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