熾火

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「あんたのせいじゃないって、俺の親父が不甲斐なかっただけなんだよ、高校辞めたのだって俺の意志だよ、だからそんなに自分を責めないで」 「坊」 「忘れようとは言えない、俺だって忘れられないよ…でも必要以上に思い出すこともないじゃないか」  ふっと、戸倉さんが息を吐いた。  俺の背を撫で、坊はほんまに大した子やと言いながら。 「若いのに、本物の気概がある…俺はそこに惚れたんや…綾人みたいな子は堅気のままで居させなあかんと、俺はずっと係わらんようにしてた――下手に手助けしたら、坊の方が筋者の知り合いやて言われるから、遠くから見てるのが精一杯で…せやけど結局、坊に惚れた心にはよう勝てんで、こんなところまで連れて来てしもた」 「いいよ――俺だって戸倉さんが好きなんだから」 「坊…どうしたらええんやろな、こんな歳になって、自分でも怖いくらいに坊に惚れてるんや」  こんな人にここまで惚れてるなんて言ってもらえて、俺はもうこっぱずかしいやら嬉しいやらで、汗すら出てきた。  俺だって大好きなんだから。  どちらもちょっと緊張しつつ、そっと唇を重ねる。  緊張は最初だけで、すぐに解れて深いそれになった。  俺がネクタイを外させると、後は戸倉さんが自分からスーツを脱いで行った。  どっちが仕掛けたのか判然としないくらいに互いが互いを求めている。  でも、戸倉さんの表情がはっきり見えるので、部屋が明るいのに気付いた俺は、カーテンがと制止した。 「ええやないか…坊の顔が見たいんや」 「やだ、絶対にやだって」 「もったいないこと言うたらあかんて」 「いやだよ」  キングサイズのベッドの端に転がって逃げると、やれやれと戸倉さんは降参して、遮光カーテンを閉めてくれた。  光が遮断されたら、これで大分違う。  それにしても寝室もアイボリー系で、趣味がいいな。この人がいるならどの部屋だって落ち着くのかも知れないけど。 「戸倉さん、内装のセンスもあるんだね」  ベッドの中に潜り込んだ戸倉さんがこちらを捕まえようとするので、俺もそれに引き込まれながら言った。 「何でや?」 「だってすごく落ち着くから、このマンションの部屋全部」  低い笑い声がした。 「それはな坊、昨日の運転手の竹野の手柄や」 「あの人の?」  柔道の師範でもやってそうなプロレスラー体格の、いかつい顔の若い人が思い出された。  あんなごつい人がこのアイボリーを選ぶとは、何だか信じ難い。 「どうしてあの人が?」  戸倉さんが顔を少し顰めた。 「竹野はカラーコーディネーター気どりでな、色合わせが趣味なんや…一応色彩心理学も知ってるし、人の服やインテリアにすぐ口出したがる奴や――『新しく買われるマンションではぜひ自分が内装をします』って言い張るから任せたら、こんな毒も薬もないような部屋にしやがったんや」  その話し方がおかしくて、大笑いしてしまった。  俺が笑うと戸倉さんも少しは気が紛れたのか、ちょっとばかり表情を和らげて続ける。 『これは若い女が住むような部屋やぞ』  戸倉さんが出来上がった内装に呆れ返ると、竹野さんは胸を張って答えたらしい。 『若頭はご存じないんですか、最近は“癒し系”が流行なんですよ、ですから時代の最先端で、人の心を和ませるアイボリーです』 『ヤクザが和んでどうする、毒気抜かれた蛇みたいなもんやないか』 『じゃあ戦闘気分を高めるために“ワルキューレ”でもBGMで流しますか――あ、最近では"ミッション・インポッシブル"か"007"かな』 『ドアホ』  口調を変えて話すので、二人の微笑ましい掛けあいの臨場感があって、苦しくなるくらい笑った。  戸倉さんは無口に近いのだろうが、それでも俺の前では色々話してくれるし、話し上手でもある。  話しているとこの人は語彙もあるし落ち着いているし、どこかの大学は出てるんじゃないかと思ってしまう。乱暴なところが全然なくて育ちだって良さそうだし、どうしてヤクザなんかしてるんだろうと不思議で仕方がなかった。  好奇心に駆られて聞いてみると、戸倉さんは慶大だと答えた。 「慶応? すごいな、慶応ボーイだったんだね」 「そんな大したもんやあらへん、かぶれ程度や…俺が大学三年の時に小五の弟が珍しい心臓の病気やらかしてな、家は大阪で商売手広くしててもさすがに金が足りんなったんや…それで柏木組の三代目が銀座の料亭に来てる所に乗り込んで、俺が組に入る代わりに金を出してもろうたんや」 「………」 「勉強し足りんかったのは残念やったな、けど俺はこの世界に入ってから、堅気には向いてへん人間やったかも知れんと思うてる――馬鹿正直すぎてな」  だから、あんなに俺の将来を心配したのか。  区切りのないまま学業を中途で辞めて世間のレールから外れてしまう、どこか自分でも納得しきれない苦さを、この人も知っていたから。  そうだ…この人は正直過ぎる。  哀しいほど潔い人だ。  下劣な思惑や人間を何よりも憎んでいる人だ。  普通のヤクザなら――いや、集団という安泰に蛮勇を得た男なら誰だって、母に手出しをしようとした手下を傍観するだけじゃなくて自分だって加わっていただろうに、この人は吐き捨てるように叱り付けた。  それほど卑劣な振る舞いが嫌いな人なんだ。  抑えて抑えてそれでも耐えられなくて、こうして俺を抱き寄せた。  それほどに正直な人なんだ。  知れば知るほど戸倉さんの深さが知れて、どんどん俺も嵌っていく。  こうなったら裏の世界に塗れたっていい。  この人と一緒なら、どこまで堕ちても俺は後悔しない。  昨日されたように、俺も戸倉さんの肌に唇を這わせた。  筋肉の筋が見える、綺麗な体躯。  すっきりした身体つきなのに、きっちりと鍛え込まれている肉体。 「坊…悪い子やな、ちょっと教えただけで、これや」 「ふふ…」  いきなり肩を掴まれ、たちまちにシーツの上に押し付けられる。  項に強く吸い付かれただけで、もう身体が奔る。  邪魔だとばかりに羽根布団を追い遣った戸倉さんが、一気に俺を抱いた。  あとは俺が泣いて、喘ぎすらままならなくなるまで焦らされて、二人で果てを分かち合った。  何度も、時間が許す限り。  短い倖せの始まりだった。
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