熾火

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 気が付いたら寝室のベッドの上で、身体も洗われていた。  居間でさんざん乱れさせられた記憶が立ち戻って、いたたまれなくなる。大きなタオルケットを互いに掛けた恰好で、戸倉さんが俺を眺めていた。 「坊…よう寝とったな」 「戸倉さん、起きてたのか」 「いや――俺もさっき目が覚めたばかりや」  少し微笑んで、泣き腫れた俺の瞼や頬を指先で撫でる。 「嬉しかったで、坊…俺に何かあったら、一緒に死ぬ言うてくれたのは」 「本気だよ――気紛れなんかじゃない、本当にそうしてやるから」 「なあ、坊…生きとったら色んなええ事がある、せやから簡単に死んだらあかん…俺みたいに渡世人稼業やっとったらそりゃ仕方ないけどな、でも坊は違うんやから」 「ひどい事言わないでくれよ、あんたに取り残されて、俺にどうやって生きろって言うんだよ」 「…あのな坊――前から考えとったんやけどな、お前、大検受けてみんか」 「大検を?」  事情があって高校卒業の資格が得られなかった人のために文部省が制定した、学力試験の事だ。これをパスすれば、大学の一次試験を受験する資格が得られる。 「大検に受かれば、共通一次受けられるんやろ?…しもた、今はセンター試験言うんやったな」  世代の違いが露になるミスに戸倉さんは本気で舌打ちしたので、それまでの深刻な話もちょっと紛れて、俺はちいさく笑った。 「そう、今はセンター試験だよ…ところで大検のことなんだけど、俺もそれは考えてなかった訳じゃない、でも仕事が忙しいし、大学行くにしてもまだお金が足りないから、いいよ」 「ええ頭しとるのに、宝の持ちぐされやな…綾人みたいな人間こそ勉強したらお国のために働けるのに、阿呆ばかりがどこでも偉そうな顔して歩いとるからいけ好かん」  自分が金を出そう、とは戸倉さんは絶対に言わなかった。  俺が金を援助されるのをひどく嫌うのもあったし、自分が稼ぐ金は全部汚い金やから、そんな物を渡したら綾人が汚れると以前にぽつりと漏らしたことがあるからだ。  俺だって人の金なんか絶対にあてにはしない。こうやって行く末について真剣に考えてくれただけで充分過ぎるほどだった。  寝室の遮光カーテンから漏れる夕暮れの光をぼんやり眺めていると、戸倉さんがくすっと声を出さずに笑った。 「何?」 「坊もなあ…最初は明るい場所は嫌やのカーテン閉めんとあかんやの言うて駄々捏ねてたけど、最近ではすっかり何も言わんなった思うてな――ずいぶん俺も楽になったで」  さっき、遮光カーテンも引いていない真昼の居間で抱かれたことを言っているのだ。  だってあれは、事故だって言われて焦ってたからだよとは思いつつも、認めざるを得なかった。最近は明るい所でも抱き合うことが多くなっていたから。  戸倉さんに見られていると思うと、よけいに身体が火照るんだ。あの人が俺を求めている、情熱的な表情も見られる。だから明るかろうが暗かろうが、どちらでも平気になっていた。  でも元凶はこの人だ。  戸倉さんじゃなきゃそんな事受け入れもしない。いや、元々この人以外のどんな男女とも俺は肌を合わせたくはないんだから。 「俺のせいじゃないよ…戸倉さんのせいだからな」 「おや、俺のせいやて? まあそうかも知れんわ」  二人で声を合わせて笑い、明るい接吻を交わす。  戸倉さんが死んだ後についての議論は、また平行線に戻りそうなので、俺は『言う通りに、ちゃんと生きて行くよ』とだけ告げた。もちろんその場限りの嘘だ。この人が死んだら俺も死ぬと心の中では決意していた。  たぶん彼も、俺が本心と正反対の嘘を言っていると察していたと思う。でも何も言わなかった。  曖昧なままどちらからともなく論議から身を引いて、その日はそれで終わった。
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