熾火

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 バイトを終え、教科書を入れたバッグを抱えて夜道を帰っていた時、下宿の前に黒塗りの車が止まっているのを見て、またかと俺は舌打ちした。 「綾人」  俺の姿を認めたスーツ姿の男が、車内から降りて来る。 「馴れ馴れしく呼ぶんじゃねえよ――あんたに用はない、何度言ったら判るんだ」  そう突き放したところで、奴が付いてくるのは止められない。  三流アパートの、鉄の板を並べただけの安手の階段を登る俺の後ろから、高級な革靴が響かせる鋭い足音が続く。  ほら、やっぱりな。  しつこ過ぎる。  二階の203号室の前で立ち止まり、これまた安っぽい扉の鍵を回し、部屋に入る。  男は閉まり掛けるドアの隙間を縫うように、するりと部屋の中に入り込む。  後ろの存在を無視して六畳間の電気を付けようとすると、暗がりの中で抱き止められたので、肘を胴に突き入れようとしたが、かわされた。 「綾人…どうして俺を避ける」 「まだ判らないのか、もう何回も言ってやっただろ? 俺はあんたが好きでも何でもないんだ」 「戸倉が死んでもう一年だぞ――こんな生活を続けていたらお前だって倒れてしまう、そうしたら一番戸倉を悲しませる事になるんだぞ…俺の所に来れば不自由はさせない、楽に大学だって行かせてやれる」 「金さえあれば誰でもあんたに懐くと思ってるのか?勘違いするなよな、柏木組の組長さんよ」 「綾人――」  項に押し当てられる唇。  切迫した息遣い。  同じ男でも、どうしてこう違うのだろう。  あの人の唇は、触れただけでそこが火傷をしたかのように火照った。  あの人の息遣いは、聞くだけで俺も息が上がり、あの人が欲しくなった。  側にいる男のそれは、心を一層冷まして行くだけ。  拒絶する相手を追い続ける人間への軽蔑しか残さない。  醒めて行く自分の心を他人事のように眺めていた時、いきなり畳に押し倒された。  男二人が争う動きで、安アパートの壁が揺れる。  唇が強引に塞がれた。  相手の唇を噛み切ってやろうとする前にすかさず離され、首筋に顔が埋められる。 「俺はお前に惚れているんだ、綾人…お前を側に置きたいんだ…だからこうして来ているのに、どうして俺じゃ駄目なんだ」 「あんただからじゃない、誰でも駄目なんだよ、あの人以外は」 「綾人、いつまで忘れないんだ…死んだ人間に誠意を尽くしたって戸倉は帰って来ない」 「だから簡単に宗旨変えしろって言うのか、俺はそんな軽い人間じゃない――あの人を裏切る事は俺自身を裏切り、苦しめる事でもあるんだ…俺にはあの人が全てだ、死んでいようが生きていようが関係ない」  戸倉と言う言葉をそれ以上聞きたくないのか、もう一度唇が塞がれる。  今度は俺の方から引き剥がし、出て行けと言い放った。 「しつこいにも程がある、俺に付き纏う暇があったら組の面倒でも見ろよ――だいたい下宿の前に黒塗りの車が停まってたらな、この界隈じゃ目立ち過ぎるんだ、迷惑なんだよあんたの行動は」 「綾人」  諦めたのか、男が身を引く気配がした。  それに応じて俺も半身を起こして電気を付けようとした。  一瞬の隙を突いて、再び組み伏せられる。  シャツが裂かれ、ジーンズにも無理矢理手が伸びる。  身体の上に性急に唇が這い始めた。  こいつ、何て最低な奴なんだ。  あまり暴れると隣と階下の住人から苦情が来るから、立ち回りもろくに出来ない。  お前の唇でなんか触られたくもない。  抵抗しても止めないから、俺は判った、判ったよと声を上げた。  男は俺が言う事を聞く気になったと思ったらしい、力を緩めたので、俺は続けた。 「好きにするがいい――身体が欲しいなら勝手にしろ、ただ心は未来永劫やらないし、あんたに抱かれたら最後、俺はさっさと自分で死んでやる」 「馬鹿な事を言うな」  哀願するように男が遮るが、俺はそれを逆に制した。 「言ったろ? たとえ身体だけでも、あの人を裏切る事に変わりはないんだ――そんな事をしたら俺は自分を責めずにはいられない、ずっとな…俺が大切だっていうなら、俺が自分を追い詰めて行く破目に陥らせないようにするのが本当じゃないのか」 「戸倉が大切なら、奴が大切にしていた組の為に俺の所に来てくれ…お前の事ばかり考えて何もかも手に付かないんだ、このままじゃ組は駄目になってしまう」  冷たい畳に横たわる俺の上で、奴が低い声を震わせる。  情けない男だ。これが本当に大阪でも有名な柏木組の頭領だろうか?  戸倉さんとはたった五つ下でしかないくせに、この違いは何だろう。  呆れ果てた俺は柏木を押し退け、出て行けと命令口調で告げた。 「あんたみたいな男が上に立っているなら、下の者が哀れなだけだ…潰れるなら勝手に潰れろ、俺の知った事じゃない――あの人が生きていない今、柏木組は俺には赤の他人、何でもない組織でしかないんだからな」  身を起こした奴が胡坐をかきながら、ついに怒りを籠めて脅しを吐く。 「俺の言う事をこうまで聞かないなら、これまでは大人しくしてやったが、ただでは済まさないぞ」 「殺すか? 望むところだ、さっさと殺してくれよ、そしてあの人の側に行かせてくれ――能無しのあんたでもそれ位してくれりゃ、少しは俺の役に立つ人間だったと認めてやるよ」  棘のある言葉を投げ付けても、奴は溜息を吐いて、俺の髪に手を遣っただけだった。 「大抵の人間なら俺は簡単に手玉に取れる、だのにお前は唯一俺の思い通りにならない人間だ、戸倉と同じように…そんな事が出来る訳がないだろう」  俺だって判っている。  こっちが屈服するかどうかの様子見みたいなものだったのだ、さっきの脅しは。  そして俺が相変わらずなので、柏木も諦めが先に立ったようで、自嘲的な笑いが漏れる。 「戸倉め…これからの組に必要な奴自身を俺から失わせただけじゃなく、お前の心も一緒に持って行きやがって…」  そうだ――あの人は俺の心を持って行ったのだ。  あの日以来。  血塗れになって、若衆達に抱きかかえられて柏木家の奥の間に運び込まれた、あの日から。
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