第一話 正歴一八一七年九月(果実月) 秋の夜会を君と(改稿版)

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 ──まさか、こんなところで彼が泣くのか?  戸惑いが生まれる。しかし戸惑っている場合ではない。彼の言葉に頭を働かせなければいけない。  すぐに理解するには、今まで積み重ねてきた自分たちの時間の壁が厚い。それでも、懸命に努力をする。  そうして言葉のひとしずくが、じわりと脳裏に染みてきた。  途端に、枯れ野に雨が降り、一斉に花開くように広がっていく。  それと同時に顔に血が上ってくるのが解った。  熱い。頬が、瞼が、熱くてどうしようもない。  腕を伸ばし、こんなにも近くにあった愛しい人の身体を引き寄せた。  抵抗もなくオリヴィエの腕に収まった細い身体から、二つ名にふさわしい香りが立ち上る。 「……ごめん」  彼の耳に囁いた謝罪に、ラウールは首を振った。 「謝ってくれるな。私が何よりも騙していたのは自分自身だ。君は己を騙す私の意を誰よりも誠実に汲んでいてくれただけだ。謝罪すべきは、そうやって君の優しさに甘え、傲岸にも君の思いを殺し続けてきた私だろう」  今度はオリヴィエが首を振る番だった。 「違うよ、ラル。それは僕が自分で選んだことだ」  オリヴィエの腕の中でラウールが身体を起こす。  目が合うと、謝罪しあう自分たちが可笑しくなって、二人同時に吹き出した。  今この時からは、もう彼を思う気持ちを隠さなくていい。  初めて素直な思いのまま、ラウールを抱き締める。  昔よりもか細い、けれど夢ではない実体の彼。  オリヴィエに抱かれたまま、ラウールはこちらの肩に頭を預け尋ねてきた。 「夜会の件。理由などない。私が君と共に歩きたい」  いまや彼と共に歩くことに否やはない。  けれど。 「ラル、僕も君と一緒に歩きたい。けれど、今日の夜会については礼服の用意がないよ」  それを聞いてラウールはくすりと笑った。  ──ああ、そうだな。  少年の頃を彷彿とさせる彼の表情に、オリヴィエも苦笑を洩らす。  オリヴィエを連れて行くつもりだったラウールが、手抜かりをする訳がなかった。オリヴィエもメールソーに出入りをする仕立屋に服を作らせたことがある。ラウールが自分に黙って礼服を仕立てることなど、造作もないことだ。  果たして。次の間のクローゼットの奥に、新調したばかりのオリヴィエの礼服は隠されていた。
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