第二話 正暦一七九六年四月(芽月) 春の日に君と秘密を(改稿版)

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 ただ困ったのは、その人相手に発散するつもりだった性欲の処理だ。帰宅して自室で自慰というのも味気ないに過ぎる。  そんなことを思案しながら校舎の裏手を歩いていると、ふとピアノの音が聞こえてきた。曲はルクウンジュでよく知られているもので、特に珍しいものではない。  けれどその音色は、どこかオリヴィエの琴線に触れてくるものがあった。  学院の音楽教諭が奏でる音ではない。  出所はどこだろうと周囲を見回し、耳を澄ます。  旧校舎の第二音楽室。普段授業等では使われないその教室から、音は聞こえてきていた。  解るとすぐに、オリヴィエの足は第二音楽室へ向かった。 旧校舎の入口の扉を開き、人気ない薄暗い廊下を進む。そして目的地の第二音楽室へ。  近くまで来たら間違いようはなかった。オリヴィエを惹きつけた音色は、確かに第二音楽室から洩れ出ていた。  教室の扉を小さく開け、中をそっと覗く。  春の終わりの午後の光の中、白金の髪の少年がピアノを弾いていた。  それが同級生、メールソー・ラウールであると気づくのに時間はかからなかった。  幼年部入学以来、彼とは何度か同じクラスになったことがある。今年もオリヴィエと彼は同じクラスだった。  リオンヌ同様、いや爵位は下なれど、リオンヌ以上の家柄にあたるメールソー子爵家。彼はその嫡子だ。  家柄だけではない。成績もまた、彼はオリヴィエ同様に学年上位の常連だった。  しかしオリヴィエは彼と親しく話をしたことはない。  学院の教諭陣からも評価が高く、真面目な性格で、いつでも端正な顔に怜悧な自信を満たしているラウールのことをオリヴィエはいささか苦手としていたのだ。  けれど、今彼が奏でている音色は、そんないつもの彼の雰囲気を裏切る柔らかなものだった。  ──こんな音を出せる人だったんだ。  彼の音に浸りたくなる。  オリヴィエはするりと室内に入ると、後ろ手に静かに扉を閉めた。  譜面を熱心に追うラウールは、オリヴィエが入ってきたことに気づいていない。  扉の傍に静かに立ち、オリヴィエはラウールのピアノ音色に聞き入った。  余韻を残して曲が終わる。  オリヴィエは自然と手を打っていた。  拍手に気づいたラウールが顔を上げる。そしてこちらを見て目を大きくした。  オリヴィエはグランドピアノに近づくと、普段の苦手意識も忘れてラウールへ微笑みかけた。
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