第二話 正暦一七九六年四月(芽月) 春の日に君と秘密を(改稿版)

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 花の香りはそこに。  匂い立つまでに近くにある、制服の襟元から覗く白い喉。  淡い芳香の主はまさしくこの人だ。ついに耐えきられなくなって唾を飲み込んだ。  今すぐにでも彼を覆う服を剥ぎ取り、もっと濃厚なその香りを肺腑の奥まで吸い込みたい。白皙の肌の全身どこかしこにも舌を、唇を這わせ、甘く噛んで味わってみたい。赤く痕を散らしたい。この貴石のような菫色の瞳を涙ぐませ、絹糸のような艶やかな白金の髪を乱し、頬を桃色に染め上げながら、彼の形良い唇で己の名を呼ばせ求められたい。  突然胸の奥底から沸き出した欲望に、自分でも驚いた。  今まで何人もの相手と身体を重ねてきたけれど、こんなことを思ったことなどない。  ──この香り?  いや、そんなこともどうでもよくなる。  オリヴィエも空いた手をラウールの引き締まった腰に回すと、彼に囁き返した。 「うん。それに僕が相手だったら、誰にも何の迷惑もかからない。うってつけだろう?」  ラウールの瞳に自分の姿が映っている。  ──彼はどう思っているのかな?  興味本位でそう思う。けれど彼がどう思っていようと、ここで掴んだ手を放すつもりはまったくなかった。  理由は解析仕切れなくとも、彼が自分にとって逃し得がたい存在であることは明白だからだ。  心密かに期待をするオリヴィエへ、ラウールの返答は大胆なものだった。  踵を上げて背伸びをし、オリヴィエの唇をついばんできたのだ。  ほんの一瞬のふれあい。鼻先に漂う香り。  すぐに唇は離されたが十分だった。  オリヴィエはラウールの顎をとらえ、再度唇を重ねた。中を割り開いて舌を入れる。  歯の裏を舐め、口腔を愛撫するオリヴィエに最初はたじろいだラウールだったが、すぐに舌を絡めてきた。  花だけではない。他にももっと複雑に混ざり合った芳醇な香り、味が口内いっぱいに広がり、脳を刺激する。  形のないそれを貪ろうと、ラウールの腰を強く引き寄せた。ラウールもまた、両腕をオリヴィエの肩に回し、しがみついてくる。  互いの荒い息づかいと、くちゅくちゅと湿った音だけが音楽室に響く。  深く重ねた唇を離すと、混じり合った唾液が糸を引いた。  オリヴィエの肩から腕を放したラウールが、濡れた唇を指先で拭い、手を差し出してきた。  頬を朱に染めたまま艶然と微笑む。 「オリヴィエ。君のお誘いを受けるとしよう。案内を頼む」  望む答えに、オリヴィエも笑った。  ああ、今の自分は燃え上がってしまった欲望を隠せてはいない、と思う。  ──構わない。  それだけの価値がある、美味なる相手を見つけ、手に入れられるのだ。  オリヴィエはラウールの手を取った。 「うん。君を屋敷へお連れしよう」
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