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開け放たれた窓から四月下旬の朝の風が入ってくる。
風に乗っているのは、校舎横の花壇で花を咲かせている早咲きの薔薇の香りだろうか。
昨日のことを思い出すと、左の鎖骨の辺りが疼いた。
オリヴィエは意識しないまま、そこを手で押さえていた。
昨日までとは違う。
そのはずだ。
それでも、昨日までと何も変わらない朝の教室の風景に、自分一人あらぬ夢を見ていたのではないかとも感じる。
あれは、オリヴィエを惹きつけたピアノの音と共に始まった夢だったのかと。
手が届かない相手を渇望する心が生み出した幻。
──確かに薔薇だった。
窓から入ってくる香りに、昨日のラウールの香りを思い起こされるが、どうしようもない空しさも生まれ始めていた。
「オリヴィエ」
そんな思いでいると、不意に傍で名前を呼ばれた。
肩が大きく揺れる。自分の思いに沈み込んで、あまりにも隙を作ってしまっていた。
心臓が激しく打つが、驚いた事実を誤魔化す微笑を作って声の方へ顔を向ける。
けれど、自分を呼んだ人の正体を知って、表情はそのまま凍り付いた。
怪訝そうな顔をして、ラウールがそこに立っていた。
何かしら教室での用でもなければ、ラウールがオリヴィエに話しかけてくるなど今までなかったというのに。
当然周囲も、自分たちが会話をするような仲ではないと認識している。
──うわ……
他人に自分がどう捉えられているのか、よく理解している。その上で他人の目など気にしてこなかったオリヴィエだが、今は教室内の興味に満ちた視線が痛かった。
誰にも知られたくない。
それは何が生み出す願望だったのだろう。
自分の思考に縛られて、言葉が発せなくなる。
そんなオリヴィエに向かって、小さく首を傾げたラウールは一片の曇りもなく笑いかけてきた。
机の上に置いたままだったオリヴィエの左手に、同じように机に置かれたラウールの右手が触れる。
「今日の放課後、また君の屋敷へピアノを弾かせてもらいに行きたいんだ。いいかな?」
彼の笑いは変わらない。
けれど。
彼の右手の人差し指が、つぅ……とオリヴィエの左手の小指を撫でた。
自分の鎖骨に残る痕。
彼の肌に残した痕。
窓の外からではない。彼から漂う薔薇の香り。
──夢のはずがない。
けれどそれは自分たちの秘め事。
有象無象に知られる必要のないこと。
答えを見いだしたら、悩む必要はなかった。
オリヴィエは笑うラウールに向けて、自分も笑顔を作った。
「是非どうぞ。君ならいつでも歓迎だ」
そして、教室の誰にも気づかれないようそっと彼の指に己の指を絡め、自分たちだけの秘密の答えを返した。
第二話 春の日に君と秘密を ー了ー
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