あなたの息子で良いですか?

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あなたの息子で良いですか?

僕は祖父と祖母と母に育てられた。 小さい頃は祖父を父だと思っていた。 祖母と祖父の関係は所謂、熟年離婚間際と言えるくらい冷めきっていた。しかし、父と母が離婚してボクと母が祖父母の家に住まうことになり、ボクが最後の鎖のようなものになった。 家で祖父と祖母は殆ど会話をせず、時折祖母が一方的に怒鳴り、祖父は自分の部屋に籠るというパターンがお決まりであった。 義父は、有名な癌の研究病院でレントゲン技師をしていた。 平日は殆ど遅くまで研究室に居たので休みの日に遊んで、とねだっていたのをよく覚えている。 休みの日にまで消化器のレントゲン写真を家で眺める義父だった。 北海道の田舎から出てきた父は化石などを採集するのが好きな子供だったようで、ボクも北海道の親戚にあたる人達の所へ連れて行って貰った時、義父が懐かしいと零す、人の足が殆ど立ち入らないような山奥の川に連れて行って貰ってアンモナイトを採った。 大人になったボクの家のタンスの奥に、まだアンモナイトは太古から今に至る令和まで眠り続けている。 去年の7月、冠雲を夏の匂いが運んできた頃 義父が足の違和感を訴えていた。 しかし、その頃、義父はレントゲン技師の若手の育成に力を入れており、それでも無理矢理1時間かけて病院へ電車で向かっていた。 8月になると、食欲がないと殆ど祖母のご飯に手をつけなかった。丼飯を食べていた義父がだ。 検査をしろと言う家族に頑なに首を縦に振らず仕事を続けていた。 8月の終わり、まだ夏の暑さがしぶとく残る日々の中、義父はついに勤務中、病院で動けなくなり、自身が勤めていた癌の病院に入院した。 身体を動かせない以外まだまだ元気な祖父にボクと母と祖母が交代で寄り添った。 まだまだ後進の育成をしなくちゃいけない。 そんな言葉をボクたちは義父にかけていた。 義父の後輩にあたる医師が病室で病状を説明をしにきた。 肺がんのステージIII。 背骨、大腿骨に転移してるとの事だった。 転移により肋骨は骨折しており、脚の骨も危ないとの事だった。 どうして という言葉がボク達の頭をよぎった。 どうして癌に50年携わってきたあなたがここまで放置したのか。 どうして癌に侵されながら入院する前日まで仕事をしていたのか。 どうして無理矢理にでもボク達はもっと早く義父を病院にぶちこまなかったのか。 一番甲斐甲斐しく義父を看病していたのは祖母だった。 あれ程別れたいなどと吐き捨てていたけれど、義父の命を繋ぐために、目の下に大きな隈を作り、せっせと看病をしていた。 ボクは32年義父と祖母を見ていたけれど、手を繋いでいるのを見たのはそれが初めてだった。 痛みは日に日に強くなるようで徐々にモルヒネの量を上げていった。しかし義父は幻覚を見たくないからモルヒネは打たないでくれと言っていた。 9月の末、臓器から出血があり、抗癌剤が打てなくなり、対症療法に切り替わった。 ボクは死ぬほど悔しかったのを覚えている。 しかし、幻覚でも義父はその資料を送ってくれなど、全て仕事のことをボクたちに指示を送ってきて、ボクたちはそれに従った。 10月19日、ボクたち3人は病室に泊まっていた。 酸素濃度が低下する音とベットが、ギシギシする音で目が覚めた。 義父は片目しか開かなくなっていたが、眼球が飛び出てしまうのかという位に目を見開いて 「ぐるじい…ぐるじい!」 そう叫んでいた。 ナースコールを押してボクは義父の右手を強く握った。祖母は抜けた腰を必死に起こし左手を握った。 義父の命を繋ぐ機械音が遠く、遠くに聞こえた。 ボクの唯一の男親はこの世界の何処にも居なくなったという事実が、突然に突きつけられた。 その後、ボクたちには哀しむ暇など与えてくれなかった。義父の呼吸が止まって2時間後には葬式屋との打ち合わせが始まった。 気丈に振る舞う母も祖母もボクも正直頭も心も追いつかなかったが、現役で病院に勤めていた義父だったので家族葬というわけにもいかず、葬式を大々的に開くことになった。 長男という立場で喪主である祖母の隣にずっといた。 代わる代わる病院の方たちは、君が息子さんだねと、ボクに握手を求めてきた。 義父はいつもボクの話をしていたらしい。 火葬する瞬間、よろけて泣きながら義父の出棺を無意識で追いかけた祖母を身体で抱き止めた。 自然と熱いものが込み上げてきた。 台風と重なってしまった式だったのに、総312名の方たちが義父にお別れをしに来てくれた。 ボクはいつも祖母に怒鳴られていた義父の丸い背中ばかり見ていたので、義父の偉大さをこんな形で噛み締めることとなった。 450万円の式のあとの、書類や、お返しなど一通りが終わったのは、実に歳が明けた3ヶ月後の事だった。やっと落ち着きを取り戻した。 それからの日々の中で、ボクたちは義父が生きていた時の空白を、亡くなった後に必死で埋めようとした。実に滑稽な感情論に見えるだろう。 義父の匂いが日に日に薄くなる父の部屋を皆で整理することになった。 祖母が涙を目に溜めて言う。 「これ、安物の時計なのにあの人気に入ってねぇ、今まで1度も狂わないでいいんだよって、そんな事初めて亡くなる3ヶ月前に言うんだよ。」 義父の時間 をとうに追い越した安物の銀の時計を祖母がギュッと握りしめて声にならない声で額に当てていた。 母が、涙をこらえて言う。 「このカバン、私があんたくらいの時から使ってた。デザインなんて気にしない人でさ、こんなボロボロなのにポケットが沢山あるからいいって、あの人らしいね」 ぽつりぽつりとボク達が見過ごしてきた義父の生前の空白を埋める作業は続く。 もう何度目だろう、祖母が泣きながら呟く 「どうして私は生きてた時にあの人にもっと優しくしなかったんだろう。どうして居なくならないと分からないんだろう。」 79の祖母が素直に漏らすからこそ、説得力と、それ迄の日々の重さがその言葉に凝縮されていて、ボクたちの胸を抉り、絞ってくる。 母が言う。 「何歳になっても、後からしか大切なものに気づけないのが、人間なんだね。」 54の母がぽつりと零した言葉を、ボクには拾い上げることが不粋に思えて、何も言えなかった。 母が続ける。 「ママとパパが喧嘩した後にね、パパに、なんでいつも何も言い返さないの?って聞いたことがあるの。」 そしたらね…と母が少し食いしばり笑顔で言う。 「俺たちの夫婦仲最悪に見えるだろ。でも、ママのいい所、俺だけは知ってる。だからいいんだよ」 って… 祖母はそれを聞いて込み上げる涙を抑えるように、自分を戒めるように「バカ」「バカ」「バカだねぇ」とうわ言のように何度も呟いた。 ボクと義父は血が繋がっていない。 祖母の再婚相手だから。 ちなみに義父には実の子は存在しない それでもボクにとっては… その時、母と祖母がうわぁっと泣きながらボクの名前を呼んだ。 なんだろうと思い、振り返ると、古いボロボロの財布を祖母と母が持っていた。 「中…中を…見てみて…」 嗚咽を漏らしながら、母がボクに財布を手渡した。 中には幾つかの古い新聞の切り抜きがあった。 どうやら本の紹介の記事だった。 「初めての子育て」 「これからパパになる人へ」 「柔軟な子供の育てかた」 その新聞の切り抜きの端の日付を見て ボクは義父ではなく、初めて父に向けての涙を声を上げて流してしまった。 「昭和62年11月2日」 ボクが生まれて3日後の新聞だったのだ。 病院関係者の人達も、普段から仕事以外は寡黙な義父だったけれど、息子さんの話だけはいつも自慢気に珍しく笑顔一杯で話していたよと。 葬式の時に聞いた言葉を思い出した。 「血なんて関係ない。あんたの事は生涯息子だったんだねぇ。」 「ボクにとっても生涯父親…だよ。父親が…あの人で良かったよ…。」 それからの日々…いや、これからの日々も天国に逝った偉大な父に、心配させないように生きないといけない。そう。ボクたちは生きないといけないんだ。父の70年の人生を、生きることでしか繋ぐことが出来ないから。 ここまで読んで頂いた皆様に、最後に聞いてもいいですか? 血は繋がっていないんですが ボクはあの人の息子でいいですか?
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