インドラ公国

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インドラ公国

 静寂のインドラ宮殿内は、あちらこちらで、女官や召使いの嗚咽が響き渡った。  インドラ公国の首都は、真夜中であるのにもかかわらず、魔天楼の窓明かりと活気立っている街明かりが、銀河系を形成する幾千幾万もの星々のように輝き、遠方よりかすかに聞こえてくるエンジンの騒音と対照的だった。 都心から外れたインドラ宮殿では、唯一人、バルコニーの扉を開け、涙も見せずに、甘い風に長い金髪を揺らしている女性がいた。  街灯が琥珀色の瞳に反射して、まるで黄玉石のような輝きである。 「ううっ……うっ」 「もう、泣かないでちょうだい、婆や。わたしは……すでに諦めています」  インドラ公国の皇女、アリテアはため息まじりに肩を落とした。 「ですが……プリアモスの国王は、アリテア様より年下ですし、噂によると、とてつもなく大男で、誰もが恐れる、それは醜い顔だそうです。そんな男のところへ、アリテア様をお嫁に行かせなくてはならないなんて……」  乳母は身体を震わせながら一気にまくし立てた。 「仕方がないわ。インドラは貧しく、小さな国です。プリアモス国には債務が重なっているし、わたしが嫁げば、すべて帳消しになって、これからあらゆる面で援助して下さるというお話よ」 「結局、アリテア様が国の犠牲になってしまわれるのですね」 「そんな風に言われると悲しいわ、婆や」  内心、悲痛の叫びをあげていた。  自分より二つ年下で、十八歳のプリアモス国王、テルミドール。  しかし、先代国王亡きあと、十五歳にして国王に即位し、一族からの妬み、嫉み、それらすべての禍を排除してきたという。  そして、国王制主権反対派による襲撃で、とても正視できないほどの怪我を顔に負ったという情報が、実しやかに各国を飛び交っていた。  だが、彼女の恐怖は、彼の風貌などじゃない。  何故、妃として自分が選ばれたかということである。  インドラの誰一人として、テルミドール陛下に面通り出来た者はいない。  だからこそ、彼らは口伝えに聞き込んだ彼の容姿を針小棒大に想像し、悲観的にアリテアとテルミドールの婚儀を受け止めている。  出発を明日に控えて、本来、喜ぶべき祝い事であるのに、インドラ宮殿は悲しみに包まれて、アリテアだけが現実を直視して夜が明けるのをただ、ただ待っていた。  南欧諸国に名を連ねるプリアモス王国とインドラ公国は、国境線上に南北に延びるミルトン海の西と東に位置し、一方は前々王が油田と金剛石、金を発掘して莫大な富を得たが、かたや織物と農産物しか外貨を得る物がない弱小国であった。 「夜が明けるわ」  アリテアは身体を小刻みに震わせて、レースのカーテンを握りしめている手に、ギュッと力を込めた。  月は姿を隠し、新たな陽光がインドラに射し始めている。  それは何処の国にも行き渡る明るい姿であるにもかかわらず、アリテアの心は太陽と反比例するかのように沈んでいった。 「少なくとも、三人姉妹の中で、わたしを名指してくれたということは、光栄と思わなくてはいけないのでしょうね」 「婆やはアリテア様のように、割り切ることは出来ませんです。単に御姉妹の中で、一番、お若いというだけで……」  一晩中、ハンカチを目に当てて、真っ赤なになった瞳を彼女の背中に向けた。 「そうね――そうかもしれないわ。十八歳の国王、テルミドール陛下。いったい、どんな方なのか……」  自分自身を鼓舞するかのように、アリテアは東の彼方に視線を向けて呟いた。  内心では、婆やの言葉を否定し、反論し……陛下の本当の気持ちを直接聞きたい。  何故、三人姉妹の中で、アリテアを妃に迎えたいのか。 「アリテア様の婚礼用品は、すでに船に積んであります」 「今日も良い天気ね。きっと、ミルトン海は穏やかな波でしょう」  アリテアはプリアモスの桟橋まで、半日の旅に備え、失礼にならない程度の、ゆったりした瑠璃色のドレスに着替え始めた。  完全な政略結婚である。  莫大な負債をかかえて、大公は返す目途が立っていないところへ、プリアモスの大臣が訪れ、テルミドール陛下の提案を申し出た。  アリテアを妃に迎えたいと――。  それが叶うなら、プリアモスの傘下として、援助を惜しまない。  大公は、二つ返事でその提案を受け入れたわけではなかった。
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