インドラ公国

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 近代、マスメディアが発達しているというのに、テルミドールの姿は、何処にも現れない。  国民が噂している彼の姿を頭から信じてはいないが、不安を抱かせずにはいられない理由があるのは確かだ。  何故なら、二年前、晴れがましい戴冠式の当日、テルミドール陛下は、大聖堂に投げ込まれた手榴弾で、ひどい負傷をして以来、マスコミに取り上げられることを嫌い、王宮に引っ込んだまま姿を見せないらしいのだ。  大聖堂に榴弾を投げ込んだ犯人は、すぐに取り押さえられたが、彼をそそのかした首謀者は、テルミドール血縁のメラントス叔父だった。  彼は財政を一手に管理していた先代国王のあとを継ぐ、十五歳のテルミドールが、妬ましく、許せなかったのだろう。  メラントスは弱冠十五歳の少年に、国家主権者として、統治していけるわけがないと、安易に考え過ぎていたのだ。  テルミドールは六歳の時から、先代国王に帝王学を教育され、特に財政管理には厳しかった。  メラントスがどんなお題目の――例えば、ブラックホールの存在と解明とか、霊能力研磨軍事利用とか――研究費を都合してくれと頼んでも、彼は決して融通しない。  それどころか、小馬鹿にしたようにこう言った。 「そんなことに金を使うぐらいなら、福祉施設の一つでも建てた方が、有意儀というものだ」  大学を卒業したばかりのテルミドールは、殺害を企てた叔父に国外追放の断を下し、メラントスは欧州南部の大国、アーペンスへ亡命したらしい、と伝えられている。  大公の危惧が取り越し苦労であればいいが、メラントスの逆襲がアリテアまで及ばないとも限らない。  しかし、テルミドール陛下の提案を退ける力は、大公になかったのである。  もはや、財政赤字を埋めて、国民を貧困から救うのが、自分の努めであると、彼は覚悟を決めて陛下とアリテアの結婚を承諾したのだった。  アリテアは意外と冷静に、その話を受け止めているのに自分で驚いていた。  一度も会ったことのない、写真ですら見たことのない男性のところに嫁ぐというのに、愚痴一つこぼさず、彼女は首を縦に振って見せた。  大公と皇妃の方が涙ぐんでいたのだった。  インドラ宮殿正面で、黒服のSPに囲まれて、アリテアは家族との別れを惜しんだ。 「そんな……泣かないでください。わたしは国の犠牲だとは思ってはいません。むしろ、幸せに思います。プリアモス王国は富んでいますし、政治情勢も安定していると聞きます。しっかり、テルミドール陛下の力となり、良い妃になるつもりです」  彼女はハンドバッグ一つ握りしめて気丈に言った。  その言葉を、噛みしめて聞いていた大公たちの方が、涙を誘われていった。 「アリテア。身体に気をつけてな。婚儀の時は、必ず、わたしは出向くつもりだ。それまで、テルミドール陛下の足手まといにならないように……ああ、アリテア」  それ以上、言葉が続かなくなった大公は、彼女を抱き締めて瞳を潤ませている。 「お父様……お母様……わたしは、幸せに……なります」  こらえ切れなくなった涙を隠すように、早々、アリテアは真っ黒いリムジンに乗り込んだ。  大公から、テルミドール陛下との結婚話を聞かされて以来、三ヶ月間、今までと変わらぬ態度を取り続けてきたアリテアは、リムジンの中で涙を流していた。  それは決してテルミドールとの結婚を承知した後悔ではなく、両親と別れる辛さと、結婚という不安からだったのである。  リムジンは前後を護衛のSPの車に先導され、国道を走り抜けて海岸通りへと左折していった。  インドラは独自のインドラ語を話す。  ちょっと聞いた感じではラテン語に近いかもしれない。  プリアモスと親密にならざるを得なかった王族は、ドイツ語に近い国語であるプリアモス語が必須だった。  海岸通りを四十五分ほど走ると、桟橋に豪華船、キングビフロスト二世号が見えてきた。  王家が公私用に使うこの船は、テルミドールが国王に就いたときにリメイクされ、真っ白の船側は美しかった。  陛下のフルネームは、テルミドール・デンゼル・フォン・デム・ビフロストといい、代々続いているその名を船に付けていたのである。  リムジンから桟橋へ足を踏み下したアリテアは、SPの大佐に促されて、係留されている豪華船に近づいていくと、眼を丸くして怯んだ表情を作った。  なんとも、仰々しい出迎えである。  船首から船尾まで、一メートル間隔にプリアモス軍護衛官が、直立不動で立ち並んでいるのだ。 「お待ちしておりました、アリテア様。わたしは、プリアモス軍最高司令部、特殊部隊のギリガン中将と申します」  彼は右手を左胸に当てて答えた。  年の頃、二十五、六歳で、亜麻色の髪をしている。  灰色の瞳で直線的に相手の眼を見つめる人である。  豪華船に足を踏み入れたアリテアのあとから、SPの大佐が乗り込もうとすると、ギリガンに乗降口を阻まれて足止めを喰わされた。 「ここからは、すでにプリアモス王国です。わたしたちがアリテア様の護衛を務めますので、あなた方はお引き取り下さい」 「しかし――我々はアリテア様が無事にプリアモス国へお着きになるのを確認しなければならん」  大佐は慇懃ではあるが、相手を威圧するほどの口調で言った。  だが、ギリガン中将はビクともせずに、眉をわずかに上げて、恰幅のよい大佐に向かって明言した。 「テルミドール陛下の御意向です。キングビフロストⅡ世号には、アリテア様お一人で乗船してもらいます。インドラの方々はお乗せ出来ません」  大佐は悔しさに顔を真っ赤にさせ、歯ぎしりをした。  反論など出来ないのだ。  このキングビフロストⅡ世号は、プリアモス国籍の船なのだから――。  ギリガン中将はじめ、特殊部隊は次々に乗船し、インドラのSP一行は、不本意ながら桟橋で不安そうにデッキに立つアリテアを見送るはめになった。 「心配いりません、大佐」 「お気をつけて、アリテア様。すぐに大公へ報告を行います」  汽笛が二度鳴り、アリテアをガードするかのように直立不動で、後ろに立つギリガン中将は、無表情な顔を大佐に向けていた。  キングビフロストⅡ世号は出航し始め、穏やかな波をたてているミルトン海の海面をかき分けて進んでいく。  紺碧色の空と蒼海の境界線は、溶け込んで確認できない。
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