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森の中の夜道を駆け続けて、しばらく経った頃。
「……この森を抜けた先に、木挽町がある」
「!」
お面をつけた彼が向こうを指して言った。
木挽町は俺が元きたところだ。そこから令和座に帰ることができる。
「あの、助けてくれてありがとうございます」
俺が足を緩めると、その人も走るのをやめた。寛和たちのいる寺からはもうずいぶん離れているので、流石にここまでは追って来ないだろう。
そう思ったので、俺は彼に尋ねた。
「……あなたは、どちらの『役者』ですか?」
俺はこの人を見たとき、最初は菊之助か親方が身分を隠して助けに来てくれたのかと思った。
でも、違う。彼は知らない人だ。
「俺は……」
お面の人はその先をなかなか言わなかった。
「俺は、『役者』なのだろうか」
「えっ? 違うんですか」
「いや……自分でも、確証がない。少なくとも今は」
さっきまでの猛烈に戦えそうなオーラから一転、彼はやや弱気を見せるような雰囲気だった。
「……これを見て欲しい」
ふと彼が、俺に右の掌を差し出す。それを覗いたら、
「!? 手が、消えかけてる……?」
彼の右手は、まるで幽霊みたいにところどころ存在が薄くなっていて、ゆらゆらと消えそうになっていた。そこだけ透明人間になりかけてるみたいだ。
「俺がこの身体を得てから、ときどきこうなる。だから、俺という存在は不安定だ」
「こんなの、他の役者のみんなといても見たことない……」
それを聞いた彼は、俺に尋ねた。
「お前には、仲間がいるのか」
「あ、えっと……はい」
自分を助けてくれた人だし、まあ言っちゃってもいっか。
「そうだ! もし良ければ、俺の仲間のところに一緒に来ませんか。身体が消えかけてる原因を、知ってる人がいるかもしれません」
俺はそう思いついて提案した。
親方や、藤子さんだったらわかるかもしれない。
しかし、彼は静かに首を振った。
「……それは、今はしたくない」
できない、ではなく、したくない、と言われた。
「今、世界は混乱している。鬼、という新たな脅威がある。
そして俺自身もまだ、迷っている。新たな身体を手に入れたことで。この先の自分の行動を、決めかねている」
自分の身体さえ不安定なのに、彼はそれを一人で抱え込もうとしているようだった。
「……だからしばらくは、身分を隠しておきたい。お前のところの者にも世話にはならない」
それは、確かな拒絶だ。
だけど、俺は彼に言った。
「そうですか。残念だけど、でも、あの……」
仮面の下に隠された、見えない顔に視線を合わせる。
「もしまた再び会うことになったら、俺は必ずあなたの味方になります。俺はあなたに助けられた恩があるから」
そう言うと、彼はただ黙っていた。
ふいに、ワオオオオ―――――ンという遠吠えが聞こえる。
寺で聞いたのと同じものだ。
「……シロが俺を呼んでる」
「シロ?」
「連れの犬だ」
彼はそのまま道を外れ、森のなかに消えようとしていた。
「俺はシロと合流する。お前はその道をまっすぐ行け。やがて町が見える」
「……わかりました。ありがとう」
そう言って、踵を返そうとしたとき。
背後から声が聞こえた。
「――――庚申丸」
え? と思って振り返ると、彼はまだそこにいた。
それは彼が放った言葉だった。
「庚申丸だ。俺がこの身体を得てからずっと探している、刀の名前。それだけお前に、預けておく」
「えっ、なに、どういう……」
俺が尋ねる前に、彼は闇の中に紛れていなくなってしまった。
ざわざわざわ、と夜風に木々が揺れている。
俺とその人の縁は、そこで途切れた。
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