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プロローグ ~名無しの少年の名付け~
自分の名前は自分でつけろ。
それが、彼の師匠の口癖だった。
事実彼はその時になるまで――「おい」だの「お前」だの「ガキ」だの「弟」だの、そう呼ばれ続けていたのだ。
「ふつう親とかが名付けるもんじゃないの?」
五歳だったか六歳だったか、そんなころに、たぶんそう訊いたことがある。
彼は、兄弟連中よりは利発なタチだった。勉強なんかできる環境にはいなかったが、いったいどこから影響を受けているのか、言語能力の発達と頭の回転の速さが著しかった。
おかげで年齢が不明な兄弟たちの中にあって、彼は幼くして唯一、確固たる立場を持っていたのだ――親、と彼らが思っている人物に質問できる、そんな立場を。
彼の純粋で当然な疑問に、師匠は薄く笑って答えた。
「あたしはお前たちの親じゃねえよ。だからつけてやる筋合いはない」
ふうん、と彼は応えた。
師匠は口に出したことは曲げない。だからきっと、本気でつけてくれる気がないのだろう。
数多い兄弟たちの中には、師匠の教えに従ってさっさと自分で名前をつけた者もいる。ある一定の年齢になると――正確な年齢は分からない子どもがほとんどだったが――師匠はどこからか戸籍を用意して、そこに子どもたちが自発的につけた名前を記載させた。
そんな中にあって、彼が自分を名付けたのはおおよそ九歳のころ。兄弟の中でも、かなり遅い部類に入る。
遅れた理由は単純で、『別に名前がなくても困らなかった』からだった。
だから、師匠によって戸籍が作られる年齢が近づいてくるにつれ、彼は難儀した。戸籍の必要性はよく理解していたからだ。
……特に、彼のように出自が人一倍怪しい存在である場合は。
「お前もそろそろ名前を決める気になったか?」
路地裏を師匠と二人で歩いていた。前日に降った雨のせいで、平時地下世界かのように薄暗い路地に湿気が溜まり、じめじめとたまらなく不気味な風情をかもしている。
こういうところを歩くとき、彼の師匠は妙に機嫌がよくなる。「ドブネズミにゃ、似合いだろ?」そう言ってニヤリと笑っていたこともある。
「お前についちゃ、早めに戸籍を作ったほうがいいと思ってんだよ。さっさと名前を考えろ」
えー、と不満の声を上げたら拳で頭を殴られた。
「別にお前がこれからもなぶられ続けたいなら、あたしは知ったこっちゃねえが」
面倒くさそうにそういう師匠の目に、かすかな不安の色。
知ったこっちゃねえと言いながら、一方で「さっさと戸籍を作らせろ殺すぞ」と脅す。
グランヴェルデルトで戸籍を作るとどうなるか。
色々あるが、彼ら兄弟にとって一番重要な点を言うならば、仕事を正式に得られるようになる。
例え虚偽に満ちた戸籍でも、あればいざというときに大いに盾になるから、安心して雇ってくれる人間は多い。彼ら兄弟にしても、別に悪さをしたくて仕事を探すわけではない。
孤児、というだけで弾かれてしまう仕事は今でも多い。仕事以外でも。身元不明、出自不明。そんな人間に関わればリスクが大きいのだから当たり前だ。
彼ら兄弟の師匠は、要するに子どもたちの将来の選択の幅を広げようとしてくれていたわけである。どうやって偽の戸籍を作っているのかは、長く不明だったけれど。
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