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それはそれとして、「そろそろ名前を決めろ」と繰り返し言われていた彼は、いい加減その話題に飽きてきていた。
だから、ふと目に入ったものを指さしたのだ。
「あれ。あれにする。『エスタ』。俺、エスタ」
「はん?」
師匠は眉をひそめ、それから苦虫を噛み潰したような顔になった。
「このクソガキ。店の名前をつけてどうすんだ」
彼らは足を止めていた。とある店の裏口の前で。
彼はその裏口の横にかかっている小さな看板を指さしていたのだ。
『食堂 エスタ』
「だってここの人たちが俺らを生かしてくれてるようなもんじゃんか。このお店がなかったら俺たちもっと苦しいわけで、恩人なお店の名前にあやかってもいいじゃん」
すらすらと説明したものは全部後付けだったが、言いながら彼は思っていた。――エスタ。うん、別に悪くないんじゃないかな。
師匠が苦虫を百匹くらいゆっくり噛み潰しているその横で、彼らの声に気づいたのか、食堂『エスタ』の裏口が開いた。
「いらっしゃい。今日の分の食材、用意できているわよ」
顔を覗かせたのはいかにも人のよさそうな顔をした婦人だった。着ているものはよれて薄汚いが不衛生というわけではなく、服をすり切るほどの働き者でありながら、買い換えるお金がないことを意味している。
それでいて、まとう雰囲気は清浄でやわらかい。
飴細工のように溶ける微笑みを浮かべては、子どもたちの心を無垢にして喜ばせる、そんな人だ。
「ああ、アミリー。ありがとう」
師匠はようやく虫を噛むのをやめてその婦人に向き直った。そしてちらと彼を見て、
「ほら、来い。運ぶぞ」
言いながら先に戸口の向こうへと足を踏み入れる。
が、唐突にピタと動きを止めた。
その真後ろをついていこうとしていた彼は危うくぶつかりそうになり、すんでのところでひょいと師匠の体をかわした。
くるりと振り向いた師匠は、再び虫を噛んでいた。
「……お前の名付け、本気か?」
「本気だけど、アミリーおばさんが嫌ならやめる」
「……仕方ねえ」
舌打ち。つくづく思うがこの人はどうしてこう言動が汚いのだろうか。
おかげで子どもたちに感染って仕方がないから、彼ら兄弟は幼心に「これではだめだ」と考え、言葉遣いを矯正する練習をしていたりする。まったく、師匠本人に見倣ってほしいところだ。
二人のやりとりを、『エスタ』の女将アミリーが首をかしげて見ていた。
「どうしたの? 坊やくんの名付けってことは、とうとう名前が決まったの?」
師匠と長い付き合いのこの人は、師匠が子どもたちに課しているそれのことをよく知っている。だから子どもたちに明確な名前がないことにも戸惑わずに、『坊や』とか『坊やくん』とか、複数いるときは『青目ちゃん』とか『赤髪ちゃん』とか、勝手に呼びやすいように呼んでいた。
ある意味では失礼なのかもしれないが、不思議と“アミリーおばさん”にどう呼ばれても子どもたちは嫌がらなかったのだ。きっとその呼ぶ声に、師匠からはもらえない優しい響きがあったからだろう。
中には自分の名前をアミリーにつけてもらいたがる子どももいたのだが、その場合は師匠が激怒して、決して許さなかった。
「自分の名前を他人に決めさせんじゃねえ!」
なぜそんなに怒るのか、理解できた者はもちろんいない。
ただ、誰も本気で逆らおうとはしなかった。師匠がそれほどまでに名前にこだわる理由を、子どもたちは知らない。知らないが、そこに師匠にとっての“何か”がある。そのことだけは分かったから。
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