85人が本棚に入れています
本棚に追加
「こいつ、名前を『エスタ』にしたいと言いやがる」
彼を親指で示しながら師匠が婦人に説明する。
「あら、まあ」とアミリー婦人は口に手を当て、それから花のように笑った。
「光栄ね。ちょっとややこしそうだけれど」
「やっぱりやめさせるか」
「いやあねロザリア。みんながつけたいと思った名前は反対しないのが貴女の信条だったでしょう? こういうのも一興じゃない」
「遊びじゃねえんだぞアミリー」
「あら、そんな名付けも楽しいと思うわよ?」
口の中で虫を一種絶滅させていそうな師匠の顔面を前にしても、アミリー婦人はまるで動じることなくころころ笑う。
そんなこんなで、肝心の食堂『エスタ』の女将アミリーには許可をもらったのだが――。
残念ながらこの名前は、兄弟たちに非常に不評だった。
「自分だけ抜け駆けして、ずりぃぞ!」
掴みかかってくるどころか噛みついてくる兄弟までいた。ここの兄弟たちはどうも手足が――どころか歯も――出るのが早いのだが、彼は避けるのが兄弟中でもっともうまかった。それだけ兄弟を怒らせ、喧嘩をふっかけられていると言えなくもないが。
しかし、敬愛するアミリー婦人のいる、命の食堂『エスタ』の名をもらうことは簡単なことではなかった。兄弟の猛攻をひたすら避けて、避けて、避けて――
「あ、そうだ」
避けながら彼はぽんと手を打った。榛色の瞳を虚空に飛ばしながら、
「クルス。クルスでもいいな。どっちもいいな。クルスエスタとか、そういうのにしようかな」
兄弟たちは攻撃の手を一瞬休め、怪訝そうな顔で尋ねる。
「それ、どっからとった名前?」
彼はへらっと笑った。
「今思いついた。なんか、かっこよくない?」
「エスタのほうがマシじゃーーーーー!!!」
「えー」
「いいから殴られろいっぺん殴られろこの軽薄野郎!」
「わーちょっとそんなに怒らないでーあと俺クルスエスタくんで」
「エスタで十分だこの野郎!」
「クルスもつけてあげてよー」
「無駄にかっこつけた名前にしてんじゃねーーーー!」
そんなやりとりをたまたま見ていた師匠は腹を抱えて大笑いをし、「よし、お前は今日からクルスエスタだ。いいな、エスタ!」「えっ、なんで師匠まで」となったわけだが……
*
ハーヴェント。それが彼の姓になった。
姓に関しては、出自を疑われないために選べるものが限られていて、その中から彼が選んだものがそれだった。
理由は単純。――師匠が使っているものと、同じ姓。
それを選んだとき、師匠はこの世の虫を全部口の中で絶滅させそうな表情をしたが、反対はしなかった。
そうして、彼の名前が決まった。
クルスエスタ・ハーヴェント。のちに二代目“魔術師殺し”と呼ばれる人間の名前の由来はと言えば――
要は周囲にあった好きなものを適当に選り集めただけ、という、ただそれだけの話だったのだ。
(名前なんて、生活するのに困らないていどにあればいいし)
戸籍上の名前さえ、普段は使わなくてもいい。彼は長くそう思っていた。その後の彼の生活も、その考えをどんどんと裏書きしていくばかりで、反対意見がまったく浮かんでこない。
ただ――。
師匠が。親代わりであったあの人が、あれほど名付けにこだわっていた理由は知りたいと。
それは本心だった。ただの好奇心ではない。あの人は――どれだけ粗雑で粗暴でも、たしかに彼の『親』だったのだから。
最初のコメントを投稿しよう!