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エスタはにこりと微笑んだ。脳天気な笑みではない。この歳にして、相手に対する愛情をめいっぱいこめた瞳で。
「大丈夫だよ、師匠。俺は俺のやりたい道を選ぶだけだから」
そうして彼は、懐から一枚の紙を取り出す。その気配に顔を上げたロザリアは、はっと目を瞠った。
「お前! いつの間に」
「今受けてる依頼のひとつはこれだよね」
上質な手紙。依頼が紙につづられているなんてことは滅多にあることではないが、今回は偶然にも、そんな依頼があったのだ。
エスタはそれを見つけてしまった。その時点で――運命は決まっていたのかもしれない。
ロザリアは咄嗟に手を伸ばそうとした。しかし空中でその手が止まる。
やがてだらりと、その手は落ちた。もう何も止める力はないと言いたげに。
エスタは手紙の内容にもう一度目を走らせ、それからくるくる巻いて近くの燭台で燃やした。
ぱちぱちと爆ぜる炎が、少年の黄色い目を炎の色に染める。
少年のそんな様を、ロザリアは見ていた。同じように炎を映す瞳は、複雑な心を表すように何回も色を変える。
紙の最後の一欠片を、エスタは燭台の上に落とす。紙は陽炎のようにたゆたう炎を散らしながら消えていく。
切ないほどにあっけなく消える紙は、人の理性もあっけなく潰えることを示しているかのようだった。
「エスタ」
「うん」
「私は人殺しの息子などいらん。――今日から、てめえはうちの子じゃねえ。自分で生きろ」
「うん」
「――基礎も知らねえやつにこの仕事はできねえからな。今から特訓だ。眠れると思うな」
「はい」
ロザリアの顔から表情が消えていた。それでも、エスタは親を悲しませたとは思わなかった。
否。悲しませてでも――。
譲れなかったから。
燭台の炎の中に未来を見る。揺らぐ炎はそれでも消えることなく。
二人の絆を燃やし切ってしまうのだとしても、エスタはその道を選ぶことにためらいはなかった。
実の母と確信した女を殺しても、心にわずかなさざ波さえ起きなかった自分が、このことについてはひどく固執してしまうのだ。
いつだって適当な服を着ている師匠が、唯一常に身につけている十字のペンダント。
その存在を知ってしまった日から、こうなることはエスタの悲願になってしまったから――。
*
オルグリオ・レスペートは苛立っていた。
今夜の外出を、父に禁止されたためだ。
最近、遊び歩きが多すぎる――。
偉大なる父は、いい歳をしたオルグリオにそう注意した。
大いに不満だった。オルグリオが行っていたのは、五番街の視察だ。五番街にある店や家をこの目で見てたしかめる。どこからどう見ても視察ではないか。
飲み食いした金を出す? ちょっと揉めたせいで行った破壊行動の償い? その程度のこと、どうして五番街のような場所に住む人間のためにしてやらなくてはならないのか。どうせやつらは、この王都から追い出すべきやつらだ。王都から追い出されたなら隣国にでも行くだろうから、この国の民でさえないと言っていい。
なぜ、自分のほうが拘束されなくてはならないのか。
オルグリオには本当に分からなかった。五番街で彼の目に映っていたのは、家畜に等しい存在ばかりだったのに、なぜそんなやつらのために、自分が?
そうだ、特にあの“フラウム”は――。
この世にいてはいけない、唾棄すべき存在だというのに。
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