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第一章
「こんにちは!テニス部入りませんか?テニス部!初心者も大歓迎!」
「バスケ部どうですか?あなた!背も高いしバスケ一緒にやりましょうよー」
「運動部もいいけど、美術部もいいですよー!部員も仲良しだし。一度見に来るだけでもどうですか?」
先日体育館で新入生向けの部活紹介が行われ、今日もお昼休みは理香子の教室には多くの上級生が部活の勧誘に訪れている。
4月に念願のT高校に入学した理香子は、まだ見慣れない教室で椅子に座りながら、上級生の勧誘に戸惑いながらも賑わっているクラスメイトたちを眺めていた。
理香子はT高に入った時点で既に、管弦楽部に入ることを決めていた。
理由は、先日の体育館での部活紹介の時、管弦楽部の演奏がただ、ただ素晴らしかったからだ。
中学1年生からバイオリンを習い始め、中学三年間管弦楽部に所属していた理香子だったが、中学の時の管弦楽部の演奏とはまるで段違いだった。
T高の管弦楽部の一員として公の場で演奏している未来の自分
を思い浮かべるだけで、理香子の気持ちは華やいだ。
その日の放課後、理香子は仮入部をするために管弦楽部の部室へと向かった。
部室の扉を開けると、既に40名近い部員が揃い、談笑していた。
「1年生ですか?ようこそ!こちらへどうぞ」
パートの希望を聞かれ、バイオリンを希望する同級生の元へと誘導された。
同級生は全部で14名。同じバイオリン担当は理香子を入れて、男子2名、女子2名の計4名だ。
想像はしていたが、同級生の子たちも皆それぞれの楽器の経験者で、その腕前も確かだった。
しかし、理香子には根拠のない自信があった。
練習を重ねれば、皆に追いつけるはず。
その自信がなければ入部して2月も経たぬうちにきっと潰れていたはずだった。
初回の顔合わせが終わったら、次の回から早速パート練習が始まった。
T高の部活の中でも、管弦楽部は人気が高く、今年は1年生から3年生合わせて部員数は54名程となった。
毎年、12月に港区赤坂のオリエンタルホールで行われる全国合奏コンクールを目指して、4月から練習を始め、ここ10年入賞を逃したことはないらしい。
今年のコンクールの課題曲はパッフェルベルのカノン。
理香子の大好きな曲だ。
好きだからこそ、練習にも熱が入った。
管弦楽部には通常の部室の他に、土日も練習に使えるホールがある。
理香子は部室で行うパート練習で思う通りに弾けなかった時は、部活終了後に部室からそのホールに移動して居残り練習をし、他の人の足を引っ張らないよう勉強そっちのけでひたすらバイオリンの練習を重ねた。
その日理香子は、朝4時に目が覚めた。
今日は理香子達1年生にとっては初めての合奏の日だ。
週に5回パートごとに分かれてする通常の練習とは違い、コンクールの課題曲であるカノンを部員全員で合奏するのだ。
管弦楽部全員での合奏では自分のミスが曲の進行の妨げになっては決していけない。今日に備えて何度も練習したから大丈夫だと自分に言い聞かせて登校した。
5限目の授業が終わり、部活の合奏場所であるホールへと移動する。
ぱらぱらと人が集まり始め、各々音を出してウォーミングアップをしている。
理香子もケースからバイオリンを出し、音を出してみる。
やがて部員全員が集合する。指揮者が説明の後、皆の前に立ち、指揮棒を振った。
合奏が終わった。
結局理香子のミスにより2度も演奏を止めてしまうこととなった。
辛かった。
自分のせいで54名の演奏を止めてしまうことは、理香子にとって、想像以上にショックな出来事だった。
練習が終わり、部活の何人かの仲間達が理香子のもとに来て慰めてくれたが、すっかり意気消沈した理香子にはその声も耳に入らなかった。
皆がお茶をしてから帰ろうとしている中、理香子は用事があるからと帰宅の準備をし、バイオリンを持って人気のない部室へと一人戻った。
扉を締め、一人きりになると急に涙が溢れ出てきた。
涙はいつまでも止まらない。
練習しても、しても、上手くならない。自分には能力がないのか、という思いがふと、頭をよぎる。
すると突然悔しくなって、バイオリンを取り出し弾き始める。しかし思う通りに弾けない。悲しくなる。そして暫く泣き続ける、を繰り返しているうちに無性にお腹が空いてきた。
時計を見ると既に20時だった。
その時、誰かが扉をノックした。
警備員に怒られるのかと理香子が身構えると、カラカラと音を立てて扉が開いた。
しかし、そこに立っていたのは警備員ではなく、同じ管弦楽部3年生の藤堂恭介だった。
理香子は椅子から飛び上がりそうになった。
彼は4歳からバイオリンを始め、父親の仕事の都合で中学1年生までフランスで過ごした帰国子女。去年のコンクールでは異例の高校2年生でコンサートマスターを務めたという人物である。
理香子にとっては、部活で顔を合わせることはあってもほとんど話したこともない高嶺の花だった。
当時の理香子は、藤堂の噂は人づてに聞いたことがあるだけで、直接本人と話したことはなかったのである。
こんな場所でこんなタイミングで彼に出会おうとは理香子は全く想像していなかったのでとっさに机の下に隠れてしまった。
藤堂が見ている前で、椅子から飛び上がりそうになったり、机の下に隠れたり、我ながら全く挙動不審である。
すると、藤堂恭介は、クスクス笑いながら口を開いた。
「君、確か新しく入った1年生の長谷川理香子さんだよね?僕は同じ管弦楽部3年の藤堂恭介といいます。ちょっとお邪魔してもいいかな?」
理香子は、慌ててテーブルの下で髪の毛を整え、涙の跡を消すために頬をこすった後立ち上がった。
「も、もちろんです。どうぞ!」
藤堂は、笑いながら部屋に入ってきた。
「有難う。随分遅くまで残っているんだね。僕も用事があって合奏の後教室に残っていたんだけど、帰ろうと思ったらバイオリンの音が聞こえたから来てみたんだ」
理香子は、遅くまで残っていたことを藤堂に注意されるのかと思ったが、どうもそうではないらしい。
「今日、合奏で沢山間違えてしまって。練習しても私、なかなか上手に弾けないんです……」
言っていて自分が情けなくなり、理香子は涙声になりそうなのをこらえた。
「一度通して弾いてみて」
藤堂は言った。
理香子が言われたとおり課題曲であるカノンを弾くと、藤堂が様々な角度からアドバイスをくれた。
それぞれの音を弾くときの肘の角度、曲のイメージを元にしたバイオリンを弾く速度や音の強弱等。理香子にとっては、発見ばかりだった。
「なるほど。凄い!ほんとだ!音がぜんぜん違う!」
理香子が感激していると、突然部室の後ろの扉がガラリと開いた。
「こんな時間まで学校に居ちゃ駄目だ!早く帰りなさい!」
懐中電灯を手にした警備員さんが叫んだ。
「ごめんなさーい!」
二人はそう言いながら、慌てて荷物を手に下駄箱に向かって全速力で走った。
靴を履き替え、校門の外に出ると、二人は笑い転げた。
「びっくりしたー!」
「心臓が飛び出るかと思った!」
「まだドキドキしてる!」
一通り笑い終えると、二人はゆっくりと歩き始めた。
「そう言えば、お腹空かない?」
藤堂が言った。
「お腹空きました!空きすぎて背中とお腹がくっつきそうです!」
理香子が答えると、藤堂はまたクスクス笑っている。
「どこかで飯を食おう。僕もお腹が空いて倒れそうだ」
「はい!お供します!」
結局、駅近くのファミリーレストランで食事をすることになった。
席に着き、理香子がメニューを取り出し、藤堂に差し出すと、藤堂はメニューを受け取り、開いて理香子に見えやすいように向けてくれた。
「色々あるけど何が良い?」
理香子は想像以上にお腹が空いていたらしく、ピザ、唐揚げ、サラダを注文した。
藤堂は、カレーライスとポテトを注文した。
間もなく料理が運ばれてきた。
理香子が、夢中で夕食を食べていると、珍しい生き物を見るように面白そうに理香子を見る藤堂の視線にはたと気づいた。
恥ずかしさで胸がいっぱいになる。
お店に入ってからも、藤堂はクスクス笑いっぱなしである。
「良い食べっぷりだね。見ていて気持ちがいいよ。たくさん泣くとお腹も空くしね。」
泣いているところも見られていたのかと、更に理香子は赤面した。
「デザートも食べたくなってきたな。シメにスイーツでもどう?」
と言われ、今更気取っても仕方がないと思い、理香子は二つ返事で迷わずスペシャルチョコレートパフェを注文する。
「スペシャルがつくパフェは普通のパフェと何が違うの?」
と藤堂は理香子に尋ねた。
「それはですね、通常のチョコレートパフェは、バニラアイスにチョコレートソースがかかり、バナナが添えてあるだけなんですけど、スペシャルチョコレートパフェは、バニラアイスにチョコアイスも加わり、しかもベルギーチョコソースが掛かっていて、いちごとミントが添えてあるんです。
このベルギーチョコソースは侮ることなかれ。普通のチョコソースとは全然味が違うんですよ。いちごとミントとの相性は抜群!
濃厚でありながら後味がさっぱりしていて、めっちゃ美味しいんです。いくらでも食べられます!」
理香子は張り切って答えた。
藤堂は笑うのをやめて、真剣な顔で理香子の話を聞いていたかと思うと
「そうか。そんなに違うんだ。じゃぁ、僕も同じスペシャルチョコレートパフェをいただこうかな。」
と言った。
スペシャルチョコレートパフェが2つ運ばれてくると、二人のテーブルはたちまち甘い匂いで満たされた。
「うわ、すごいボリュームだ!
実は僕、普通のチョコレートパフェも、なんだか恥ずかしくて人前で食べたことがなくて。」
と照れながら言う藤堂に、
「じゃ、スペシャルチョコレートパフェを初めて食べた、今日は藤堂さんのチョコパ記念日ですね。私が証人になります!」
と、理香子がにっこり微笑むと、藤堂は相好を崩して笑った。笑うと、切れ長の目が真っ黒に潤んで見える。
その潤んだ目の下には、真っ直ぐに整った鼻と、三日月のようにきれいな口が並んでいた。理香子は思わず藤堂の笑顔に見とれてしまった。
おもむろに藤堂はスプーンをとると、ベルギーチョコクリームがかかったアイスをすくい始めた。
バランスの取れたパフェの形を崩さないように、上から順番に丁寧に食べていく藤堂が、初めてのおもちゃの扱いに戸惑っている子供のようで、理香子は思わず微笑んだ。
「ベルギーチョコクリーム、美味しくありません?」
理香子が尋ねると、
「うん。めちゃめちゃ美味い!」
そう言いながら伏せていた顔を理香子に向けた。
満面の笑みをうかべる藤堂の左頬には生クリームがついていた。
理香子が吹き出すと、藤堂が不思議そうな顔をして理香子を見た。
「先輩の頬、すごく美味しそうですよ。」
理香子が手鏡を渡すと、藤堂は自分の頬についたクリームを確認し、また先程と同じく、照れくさそうに目を潤ませながら笑うのだった。
デザートのボリュームはすごかった。
お腹が空ききっていた理香子もすっかり満足し、
「あー、お腹いっぱい!」
と背もたれに寄り掛かり、時計を見ると、もうすぐ23時になろうとしていた。
「わ!もうこんな時間!すみません。すっかり遅くなってしまって。お陰様で、自分の問題点がよく解った気がします。全て藤堂先輩のおかげです。本当に有難うございました!」
「本当だ。ちょっと遅くなっちゃったね。近くまで送っていくよ。」
「もう、私の家はすぐそこですから。これ以上送っていただかなくても大丈夫です。藤堂先輩こそ、家は遠いんじゃないですか?」
「僕もここから20分もかからないところに住んでいるから大丈夫。本当に送らなくて大丈夫?」
「はい、大丈夫です!本当に有難うございました!」
理香子は大きくお辞儀をした。
「おぅ。じゃ、また明日。練習出てこいよ。」
「はい!絶対に行きます。また明日!」
そう言って、ファミリーレストランの出口で理香子は藤堂先輩と別れ、ダッシュで家路へと向かった。
家に帰ると、母に小突かれた。
「遅いから心配したじゃない。また練習してたの?遅くなる時はちゃんと連絡しなさいよね。」
「はぁい」と返事をしながら、理香子はバイオリンをそっと部屋に置き、風呂に入った。
ゆっくりと風呂桶に浸かっていると、自然と鼻歌が出た。
こんなに気持ちが軽いのは何週間ぶりだろう。
理香子はここのところずっと、自分の気持ちが沈んでいたことに初めて気が付いた。
自分で思うよりも随分と「合奏」がプレッシャーとなり、追い詰められていたのかもしれなかった。
合奏の後、部室に戻った時は特に最悪な気分で、出来ない自分が悲しくて悔しくて泣いていたのに、藤堂先輩が来てくれてからは今まで泣いていたことなど忘れるほど気持ちが明るくなっていた。
しかも、色々と教えてもらい、今後の具体的な対策がたてられるようになった。
やみくもに練習しても上手くならない焦りの中で、自分の気持は張り詰めたままだったのかもしれない。
いつ切れてもおかしくないくらいに。
藤堂先輩は、部室で泣いている私を偶然見かけて、気持ちを和ませるためにわざわざ部屋に入ってきてくれたのだろうか。
新入生である自分が自信を失って部活を辞めてしまわないようにしてくれたのかもしれない。
そう考えると、理香子の胸は温かい気持ちで満たされた。
明日から、もっともっと練習を頑張ろう。
頑張って上手になって、藤堂先輩に少しでも近づけるようになりたい。そう思った。
翌朝、目が覚めるともうすぐ8時だった。
久しぶりに熟睡していたらしい。
慌てて飛び起きると、制服に着替え、トーストをかじりながら髪を束ねて家を飛び出す。全速力で学校まで走ると、ぎりぎり始業の時間に間に合った。
藤堂先輩のおかげで、もう練習すべき点はわかった。
今日の部活でのパート別練習は楽しみだった。
楽しみなのはそれだけではなかった。
部活に行けば藤堂先輩にも会える。そう思うと、自然と心が浮き立った
パート練習の後、藤堂先輩とは顔を合わせれば、会話を交わすようになった。
1年生の校舎は、3年生の校舎の向かい側にある。
向かい側の校舎とは渡り廊下で繋がっている。
部活以外の時間でも休み時間、たまに廊下を歩く藤堂先輩を見かけるとそれだけでも理香子は心が弾んだ。
毎日が慌ただしく過ぎていった。
梅雨も開け、照りつける日差しが強くなるころには
週に5日の管弦楽部の練習は理香子にとって欠かせない生活の一部になってきていた。
その日の放課後、いつもの様に部活でパート別練習に励む。
藤堂先輩に教えてもらったカノンの、どうしても引っかかっていたところが全て克服できるようになった。
理香子は小躍りしたい気分だった。
この気持を藤堂先輩に伝えたくて、部活終了後姿を探すが見当たらない。
丁度3年生のバイオリン担当である佐々木先輩がいたので、理香子は尋ねてみた。
「あの、藤堂先輩を探しているのですが」
すると佐々木が答えた。
「藤堂は今日休み。心臓発作を起こしたって聞いたけど。」
「心臓……発作、ですか。」
藤堂恭介が亡くなったという知らせを聞いたのは翌日のことだった。
死因はBrugada症候群。いわゆる、心臓停止に拠る突然死らしい。朝食を食べ終わった後、急に失神しそのまま救急車で搬送され、心肺蘇生処置が行われたが、結局意識が戻らないまま亡くなってしまったとのことだった。
あまりにも突然過ぎて、理香子は悪い夢を見ているような気分だった。
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