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第三章
もはやそっくりというレベルではなかった。
理香子は藤堂先輩の幽霊を見ているのではないかと思うほどバイオリンを持ったその男性と藤堂恭介は瓜二つだった。
そして驚いたことに彼は一礼をすると、おもむろにパッフェルベルのカノンを弾き始めたのだ。
それはまさに理香子達が今懸命に練習しているコンクールの課題曲だった。
美しい音色だった。
バイオリンを弾くその姿はどこから見ても藤堂先輩だった。
「あの、大丈夫ですか?」
レモンケーキとイングリッシュブレックファーストを持ってきてくれたボーイに声をかけられて気が付いた。
膝の上に置いていた理香子の両方の手の甲が濡れている。
どうも頬を伝った涙が握りしめた手の甲にまで落ちていたらしい。
「大丈夫です。すみません。」
慌ててナフキンで涙を拭いて微笑むと、ボーイも微笑み返してカウンターに戻っていった。
理香子はレモンケーキを口に含んだ。
甘酸っぱい味が理香子の口一杯に広がった。
結局その後、藤堂先輩そっくりのその男性は2曲演奏すると店の奥へと戻ってしまい、もう出てくることはなかった。
理香子はその翌日も翌々日もレストラン・エルマイオンへと出向いた。どうしても藤堂先輩そっくりの男性と話がしてみたかった。
そして3日目、理香子がケーキセットの精算をする時にお店の人に尋ねてみた。
「すみません、午前中演奏してくださるあのバイオリニストは何という方ですか?実は私の知り合いの方にそっくりで……。」
すると、お店の人は少し考えた後
「彼は16時頃になると表の湖に散歩にでかけますよ。」
と教えてくれた。
お礼を言うと理香子は翌日、レストランには行かず16時少し前に湖へ行ってみた。すると16時15分を過ぎた頃、レストラン・エルマイオンの裏口から彼が出てきた。
彼は演奏するときとは違い、ブルージーンズに半袖の白いコットンシャツという出で立ちで、手には何も持っていなかった。
彼は、湖のほとりまで歩いて来ると、靴の紐がとれかかっていたのかしゃがんで結び直している。
「あの、すみません。」
勇気を出して理香子は声をかけてみた。
彼は少し驚いたような顔をして理香子に顔を向けた。
「あの、突然驚かせてしまってすみません。
あなたのバイオリンの演奏をレストランで聞かせていただいたのですが、あまりにも素敵だったもので。
あの……、もう、長いこと弾いていらっしゃるんですか?」
とりあえず、不自然にならないようには話せたはずだと理香子は思ったが、暫く沈黙が続いた。
やはり話しかけるべきではなかったかと、理香子が後悔し始めた時、彼は靴の紐を結び終えゆっくりと身体を起こすと
「……いや、それが覚えてなくて。すみません」
思いがけない返答に理香子が戸惑っていると
「実は僕、以前の記憶がないんです。
先月の夜、ここのレストランに食事に来て、置いてあったバイオリンを見たら無性に弾いてみたくなって。
店が閉じた後、オーナーさんにお願いして弾かせてもらったら、弾けたと言うか……。それで今は生演奏のバイトをさせてもらうことになって、毎日弾きに来ているんです」
理香子は言葉を失った。
しかし、なんとかして会話を続けたかった。
「そうだったんですか。でもあなたのバイオリンは素晴らしかったです!また、聞かせていただきにレストランに来ても良いですか?」
と言うと、彼は切れ長の目を細めて嬉しそうに微笑みながらうなずいた。
それから、毎日のように理香子はレストラン・エルマイオンに足を運んだ。
午前中、エルマイオンで彼の演奏を聞き、16時になると外に出て湖を散歩する彼を待った。
彼の名は一ノ瀬亘と言った。
彼は現在、レストランエルマイオンの近くの家に、医師である父親と二人で暮らしている。
一月程前に病気で意識を失い、意識が戻った時には記憶喪失を起こしていて、過去の記憶はない。
亘の父親の話によるとバイオリンを習っていた過去はないにも関わらず、レストランエルマイオンのバイオリンでなんとなく弾いた曲がパッフェルベルのカノンだったらしい。
理香子が、高校の管弦楽部でバイオリンを担当しており、今まさにコンクールの課題曲であるバッフェルベルのカノンを練習中だと亘に話すと、彼はとても興味を持った様子だった。
「なんだか、この曲を弾いていると凄く懐かしい気持ちになるんだ」
湖の波打ち際近くにあるベンチに腰を掛けながら亘が言った。
「私もこの曲はきっと生涯忘れられない曲なんです」
理香子が言うと、亘が視線を理香子に向けた。
「私が全然この曲がうまく弾けずに行き詰まっている時に、助けてくれた先輩が居たんです。
その先輩がいなかったら私、今も管弦楽部を、いえ、バイオリンを続けていられていたかわからない」
亘は理香子に尋ねた。
「その先輩はどんな人だったの?」
「4歳からバイオリンを弾いていて、全日本ジュニアクラシック音楽コンクールでも優勝経験があって凄い人なんだけれど、全然気取ってなくてとても優しい人です。
彼は、上手く演奏できずに一人部室で行き詰まっていた新入生の私に遅くまでバイオリンを教えてくれて、一緒にご飯と、スペシャルチョコレートパフェを生クリームを頬につけながら食べて……それから
私、その先輩のおかげでもっとバイオリンを頑張ろうと思えるようになったし、先輩に会えるから部活も以前以上に楽しみになったのに、それなのに……
朝起きて朝食後失神して、病院に搬送されてそれきり亡くなってしまったの。心臓発作で」
理香子は一気にまくし立てた。
「それは……辛いね……」
亘が言った。
理香子は湖に向けていた視線を亘に移した。
「実は……、その先輩にあなたが瓜二つなんです。
レストランエルマイオンであなたが演奏しに出てきた時には心臓が止まるかと思った。
しかも曲目はパッフェルベルのカノン……!」
「僕が、君の言う先輩にそんなに似ているのか」
亘はじっと理香子の話を聞いた後、口を開いた。
「ずっと気になっていたことがあってね。
経験はないはずなのに、意識が戻ってから譜面も見ずにバイオリンが弾けたことも不思議だし、本来僕は高校3年のはずなんだけれど、どこの高校で何部に所属していたかや、それ以前の過去の話について父があまり触れたがらないんだ。
何か父は隠しているんじゃないかと思う」
「お父様は何か亘さんに隠さなければいけない事情があると言うこと?」
「色々と病気について調べたんだけれど、僕のように過去のすべての記憶をなくしてしまう全般性解離性健忘はまれらしいんだ。極度のストレスや葛藤を体験した人で比較的多くみられるらしく、発症は通常突然らしい。
治療としては記憶を取り戻すため、支持的な環境を整えたり、催眠法または薬剤によって催眠療法をしたり、
取り戻した記憶に関連する問題に対処するための精神療法で治療することにより、記憶を蘇らせようとするはずなんだけれど、父はむしろ過去については触れたがらないし、僕が週に3回受けている検査や治療はもっと内科的なもので、ちょっと種類が違う気がするんだよね」
「お父様は確かお医者様よね。こちらで開業をされているの?」
「いや、父は医師なんだけれど、ここから30分ほど車で行ったところにある研究所内にある病院で働いているんだ」
「そうなの……」
理香子は少し考えてから言った。
「ねえ、もしよかったら私が住んでいる町に一度来てみない?もしかしたら何か発見があるかもしれない。……どうかな?」
亘は暫く理香子を見つめた後、そのまま視線を湖に移した。
どこかでひぐらしが鳴いている。
水面は夕日を受けてオレンジ色に輝き、湖からは穏やかな風が吹き、亘と理香子の髪を優しくなでた。
7月でも夕方になると軽井沢は少し肌寒いくらいだ。
「そうだね。行ってみようかな。このままの生活を続けていても全く手掛かりがつかめなかったところなんだ。」
亘は答えた。
翌朝、理香子は両親に東京で友人と会う約束があると告げ、軽井沢の新幹線のホームで亘と待ち合わせた。
クリーム色のワンピースに同じクリーム色のストローハット、カーキー色の小さなボストンバッグを持った理香子は待ち合わせの時間より少し早めにホームに着いた。
周囲を見渡し、亘がまだ到着していないことを確認すると、ペットボトルを取り出し、乾いた喉を潤す。
理香子が改札に繋がる階段付近を見ていると、やがてデニムパンツに白いコットンのTシャツ。その上に濃紺のリネンのシャツを羽織り、手には黒の小さなボストンバッグを持った亘が階段を登ってきた。そして階段を登りきると、理香子を探している。
理香子は亘に向かって大きく手を振った。
亘は理香子の姿を見つけると、安心したように笑顔で手を挙げ、理香子に駆け寄るのだった。
「良かった。間に合った」
亘はボストンバッグから二人分の釜飯を取り出すと、白い歯を見せて笑った。
新幹線はエアコンが効いていて快適だった。
東京についてからの計画を亘と理香子は話し合い、
そして、二人で亘が買ってきてくれた駅弁を食べた。
「甘いもの好きだったよね。お店に良いものがなかったからデザートは後で食べよう」
そう言って笑う亘を見ていると、理香子は藤堂恭介といるような気持がした。藤堂先輩が亡くなったのは何かの間違いで、ここにいる亘が藤堂先輩であってほしいと思っていた。
一時間強で東京駅に着いた。
その後JRと私鉄を乗り継ぎ、駅の改札を出てから10分ほど歩いた所にあるT高校の正門をくぐった。
校庭では運動部の学生がランニングをしたりトレーニングをしたりしている姿が見える。
しかし、校内に人影はなかった。
下駄箱を上がり、廊下を歩き藤堂恭介が所属していた3年2組の教室へと向かう。
亘は教室に着くと、部屋をぐるりと見渡し、壁に貼ってある展示物を見たり椅子に座ってみたりしていた。
「ここの学校でこうやって君は授業を受けているんだね」
亘は言った。
教室の後は、部室へと向かった。
「何か思い出すことはある?」
理香子は尋ねた。
「うーん……」
亘はそう言いながら部室の扉を開け、まぶしそうに室内を見渡した。
「鍵がないから楽器の置いてある部屋には入れないんだけど……」
理香子は残念そうに言った。
部室を出てから校舎を一周した後、二人は学校を後にした。
学校から再び駅に向かおうと、大通りを歩いている二人の横を、トラックや乗用車がせわしなく走り去る。
容赦ない陽の光がアスファルトを照らしている。
その照り返しのせいか、理香子は学校に居た時よりも2〜3度は気温が
上がっている様な気がした。
その時、救急車のサイレンが近づいてきた。
数多くの走行中の車が次々と減速し、道路の脇に車を寄せる。その横をアナウンスをしながら救急車が注意深く走っていく。
そして、救急車が走り去ると何事もなかったかのように再び車が順に走り始めた。
その時、急に亘は足を止めた。
理香子が振り返ると、亘は
「僕は……救急車に乗ったことがある」
と、言った。
亘と理香子は近くのカフェに入った。
暑さのため、少し休憩がしたかったのと、亘が、チョコレートパフェが食べたいといったからだ。
店内に一歩はいると、そこは別世界だった。
珈琲の香りが漂い、ジャズが流れている。
エアコンが効いているせいで、身体の汗が一気に引いていく。
二人は大通りと反対側の窓際の席に座り、メニューを一応確認した後、チョコレートパフェを二つ頼んだ。
店内はログハウス調の作りになっており、天井にはシーリングファンが回っている。
亘は窓の外を見ながら、何か考え事をしているように見えた。
暫くするとチョコレートパフェが運ばれてきた。
「わぁ!美味しそう!」
ほぼ同時に二人が言ったので、理香子は頬を上気させて笑った。
亘も声を立てて笑った。
運ばれてきたパフェの上から、亘は形を崩さないように丁寧に少しずつ食べ始めた。
一口ずつ、美味しそうに味わいながら口に含んでいくその食べ方は、まるで藤堂先輩と同じだった。
じっと亘を見つめる理香子を見て、亘は
「そんな真剣な顔でずっと見られると、恥ずかしいよ。君も食べなよ」
と照れたように笑った。
理香子は、我に返り亘に謝ると
いつものようにチョコレートパフェを集中して食べた。
そして、そんな理香子を見ながら亘は微笑むのだった。
カフェを出ると、もう日が落ち始めていた。
その日はとりあえず夕食の買い出しをして理香子の自宅に戻ることにした。
家に着く頃にはもう街頭がつき始めていた。
「ローズマリーは苦手?」
長谷川と表札の書かれた門を入る時、理香子が亘に聞いた。
「いや、ハーブは大抵好きだよ。何に使うの?」
「ふふっ。内緒」
理香子はそう答えると、庭に植えてあったローズマリーを1〜2本手に取り玄関を潜った。
二人は荷物を置くと、早速夕食作りに取り掛かった。
亘はサラダ、冷奴、解凍した枝豆を、テーブルに並べながら、理香子がカレーを作り始める様子を見て尋ねた。
「カレーにローズマリーを入れるの?」
「そうなの。ちょっと意外でしょう?私、庭に生えているローズマリー、これはトスカーナブルー・ローズマリーという種類なんだけど、香りが好きで、以前試しにカレーに入れてみたことがあるの。
そうしたら、口に運ぶ直前から飲み込むまでの華やかな香りに満たされる感じが、新鮮で気に入ってしまって。あなたにも是非食べて欲しかったの」
と理香子は言い、にっこり笑った。
席に着いて、いただきますを合図に二人で食事を食べ始める。
亘が一口カレーを口に含むと、ローズマリーとカレーの香りが程よく絡み、口一杯に広がった。
「あ、俺この味好きかも」
「よかった、嬉しい!」
理香子は、はしゃいだ。
「因みにローズマリーって花言葉も素敵なの。
“あなたが来てくれたので私の悩みが消え去った”とか
“あなたは私を蘇らせる”とか
他にも、“追憶”とか、“思い出”とか。まるで私にとっての藤堂先輩みたいな……」
そう言いながら、俯く理香子を亘は黙って見つめた。
二人がほとんど食事を食べ終わろうとしていたその時、亘が
「はっきりと思い出したんだ。記憶を失う前のこと」
と、静かに言った。
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