赤い長靴

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赤い長靴

 街が水没したけれど、空を飛べる私には関係の無い話だ。翼は無いけれど、プールの授業のようにバタ足をすれば身体は上へ上へと上がっていく。そうしてある程度まで登ったら、知らない人の家の屋根に登り、休憩をするのだ。  眼下にはせっせと半ズボンを上げて濡れないように歩く少年の姿がある。彼は私を見咎めると「まったくいいよなあ!」と声を荒らげる。八つ当たりのような言葉に返してやる義理は無い。見下ろしながらにやりと笑えば、更に声量をあげた「いいよなあ!」と声が轟く。  いいよなあ、ではなく、連れてってください、だろうが。  含みがありそうでない、実に薄っぺらなその挑発に、私は屋根から飛び降りて彼の隣に立つ。正確には水面の上に立つ。恨めしそうなその瞳に微笑めば「意地悪!」と言葉が飛んできた。なにもしてないし、何も言っていないと言うのに。 「空を飛びたいの?」 「……せめて濡れてないとこまで」 「もう靴が濡れてるから一緒じゃない?」 「これは長靴だからいいの!」  彼の歩調に合わせて、私の足も水面を滑る。水の上を本当に歩けるわけではない。水面の上ギリギリまで飛んで、歩いているように足を動かしているのだ。綿密なこの技術も、空を飛べない彼には理解が出来ない。「ずるいずるい」と憤慨しながら言葉を吐き出す彼に、結構しんどい技術なんだよ、と伝えるつもりもない。  大通りにでれば水は引いていないものの、往来する小舟の姿が増えていく。唇を結び僅かに固くなる表情に「小舟ね」と私が言えば、更に彼の顔色が曇ってしまった。裾を握るその手のひらに、いくつも豆があることをよく知っているから、私もそれ以上は何も言わない。 「ね、でもその長靴、格好いいよ」  信号が変わるまで、満ち満ちる沈黙に会話を一つ。彼は顔を上げて、少しだけ唇を緩め、再び結んだ。 「知ってる」  やっぱり可愛くはない。素直にありがとうでも言えば良いのに。  信号が青に変わって、私たちはまた歩き始めた。ざぶざぶと水をかき分ける長靴は、水をかき分ける度に散る陽光が滑り、ほんの少しだけ、羨ましく思った。
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