ルーチン

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ルーチン

 柔らかな緑に雫が垂れる。私語が疎まれる自習室は、雨音だけで満たされていた。この学院には私語をしても良い大きな談話室も併設されており、仲の良い友達が居る人たちは大抵そこで自習をする。静寂を好むものは空調のよく効いた図書室での自習を好み『自習室』の名前を冠したこの空間はいつも、ほぼほぼ無人状態だ。  おんぼろのエアコンは稼働してもしていなくともそう変わらなくて、雨が降っているにもかかわらず自習室の窓は開け放たれていた。入ってくる風は湿気た空気を孕んで吹き抜け、額にじわりと汗を滲ませる。  白い長テーブルの端。窓から一番近い席に、私と先輩はいつも向かい合うように座っている。『先輩』というのも私は彼の名前を知らない。知っているのは一年先輩だということと(この学院は入学した年によってネクタイの色が変わるのだ)とても綺麗な文字を書くことの二つだけ。きっと先輩も同じだろう。私の学年と、顔に似合わずミミズ文字を書くことは、知られていると思う。  談話室を共にする友人がいないわけでもない。図書室の空調が効きすぎていることもない。ただ彼の居る空間が好きで、私は今日もここで宿題を広げている。先輩は持ってきた文庫本を読んでいて、時折その丸い眼鏡の奥の目を眠たげに擦っている。  今日勉強した新しい公式を当てはめながら、例えば問題が分からないと問えば教えてくれるのだろうか、なんてことを思う。盗み見るように彼を見れば、先輩の視線は文庫本の方に集中されている。邪魔してはいけない。淡い風が吹き、僅かにレースのカーテンを揺らす。雫の垂れる音が短くなる。雨脚が強くなる。それでも先輩は窓を閉めようとはしない。絶え間ない雨音が流れる中、その隙間に先輩の欠伸が聞こえる。  遠くの方から、風に乗って鐘の音が届く。五時に鳴る鐘の音だ。先輩は決まって本を閉じ、立ち上がる。隣の椅子に置いておいた鞄を机に置き、文庫本の中へ。机の上に落ちる影を見ながら、私は息を止めた。ほんの少しだけの緊張感。喉元まで迫り上がる『お名前は』の一言が、張り付いて出てこない。  そうともしている内に、先輩は出て行ってしまった。残されたのは私一人だけ。ほんの少しだけ手を伸ばせば、彼が肘を置いていた場所が、僅かに暖かい。  今日という日も、何気ない日常に回収されてしまった。流し雛に送るような指先で机から指を離し、私は一人、肩を落とす。今日も声を掛けることが出来なかった。きっと明日も明後日も、なにかきっかけが無ければ話しかけることは出来ないだろう。  それでもきっと明日もまた、私はここに来るのだろう。そして先輩もまた、ここにいるのだろう。
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