殴られた顔も殴った拳も両方痛い

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殴られた顔も殴った拳も両方痛い

 どうやら私の唇は、心にもないことしか言えなくなってしまったらしい。今日食べたいものを聞かれれば嫌いな食べ物を答えてしまうし、欲しいものがあってもいらないと勝手に唇が動く。唯一の利点はお世辞が上手くなってしまったことだけれど、それはそれで悲しい。そしてもっと悲しいのが、好きな人に好きと言えなくなってしまったことである。  友達家族ならいざ知らず、好きな人には悲しい言葉を聞かせたくない。それに今私の唇からなにが飛び出してくるのかわからないのだ。赤色でバッテンを引いたマスクを付ければ、彼は悲しそうに「聞いたよ」と一言。どうやら誰かから説明して貰ったらしい。私は黙ってその言葉に頷く。 「それでも、きみの声が聞きたい」  私は断固として首を横にする。唇がなにか紡ぎ出そうとするが、真一文字に固く結んだ意思が、それを決して許さない。「酷い言葉でもいいんだ」彼が言葉を重ねる。私は屈しない。「きみの声が聞けないのが、なによりも悲しい」  懇願するような言葉に、私の口から自然と「うそつき」と言葉が滑り出す。怒りだしてもいいような言葉なのに、彼は酷く喜んだ。気をよくした私の唇は、彼に罵詈雑言を投げかけるが、彼は嬉しそうに頷くばかり。私は伝えたくも無い言葉たちに涙をぽろぽろこぼしながら、ちがうの、ちがうの、と頭振る。しかし無情にも唇は勝手に言葉を紡ぐ。 「貴方なんて嫌い」  そうして唇が勝手にしゃべり出して数ヶ月が経つ。友達は次第に減り、家族とも距離を置くようになったけれど、彼だけは今も変わらず側に居て、本心ではない言葉を何度も何度も乞い続ける。慣れてしまった私は、今はもう悲しくも辛くも無く、ただ喜ぶ彼の顔を見下ろしながら、勝手に喋る唇の言葉を、無心で聞いている。  心にもない言葉は日に日に精度を増して鋭く彼を傷つけるけれど「それでもきみの声が聞きたいんだ」という献身な言葉が私の心に光を灯す。  でも実はこの病は伝染病で、近くに居れば高確率で移ってしまうのを彼は知っているのだろうか。伝える術がない私は今日も彼に罵詈雑言を投げかける。彼はそれでも私の言葉を乞い、毎日が過ぎていく。嘘も本当も混ざり合ったこの空間で意味の無い言葉だけが跋扈する。 「貴方なんて嫌い」 「俺はきみのことが好きだよ」
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