願いの河

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願いの河

  夜を歩く。スズランのランプは地面にまあるい月をいくつも落とす。歩く度に花の房が揺れ、そのたびに地面の月たちは揺れる。静かな夜だった。空気は冴えて冷たく、いたずらに頬に触れては離れていく。その冷気を浴びる度にわたしはぶるりと身を揺らし、少しして地面の月たちもぷるぷると光を散らす。  街をふたつに分ける運河は、今日も橙色の光で溢れていた。願い事を書いた灯籠を流すと、その願いが大海に着く頃に叶うらしい。白い、スズランの光とは違う、暖かな橙。その灯りに寄ろうとすれば、嫌がるようにスズランは揺れた。 「願い事、きみも流せばいいのに」  風に揺られて、背の高い葉が重なり、漣のような笑い声が広がる。夜の帳に重なるその音を聞きながら、ねがいごと、と言葉を反芻する。浮かぶのはどれも俗物的のものばかりで、海まで願いを届けるものとは違う気がした。 「……灯籠に祈るくらいなら、あなたの葉で運河を渡る方がいいわ」  わたしの背よりも随分と高い葉が揺れる。夜色の闇の中、草の隙間からふたつの瞳が覗いている。 「わたしが光を灯して、あなたがその葉で作った舟をこぐの。ね? いいアイディアでしょ?」  自信気に揺れるすずらんの光。葉っぱの向こうの瞳は直ぐに隠れ、誤魔化すようにまた、葉の擦れ合う音が夜に響く。  願い事は流れていく。遠く、海に向けて。笹舟の作れそうな硬い葉の表面は、夜露に濡れてしっとりと、肌に吸い付いた。 「海まで出たらわたしがあなたの願いを叶えてあげるわよ」  この運河にも、灯籠にも願い事を叶える力なんてない。ただ長い河を超えて海へと出ることができるなら、そんな困難な過程を乗り越えられるならどんな願いも叶えられるだろうなんて、祈りにも似た誰かが賭した想いが、形骸化して残っているだけだ。  物言わぬ葉っぱをしばらく見つめ、わたしは歩き出す。すずらんが揺れる。夜の片隅を、ほのかに明るく染める。  勇気の足りない葉たちは夜風に吹かれて音を奏でる。「つくったら」「ほんとうに」「いっしょに……」しり切れとんぼな声が、さわさわと音に乗せて耳に届く。「ほんとうよ」だけ、はっきりと、わたしは返す。  視界の隅で橙色の願いが流れていく。海にたどり着けるのはほんのひと握りか、それ以下かもしれない。神様だって流れる願いがどれもおなじ色だから、取りこぼしてしまうかもしれない。  それでも私の光は白色。すずらんの、夜にも染まらない、白。葉の後ろに隠れる臆病者の誰かさんの願いくらい、簡単に叶えてやるんだから。
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