キツネに化かされた話。

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キツネに化かされた話。

 キツネです、と口にする少年がいた。背丈は私と同じくらいで、古めかしい詰襟の学生服を着た少年だった。彼は私を視界に入れるや否や学生帽を外し、恭しく頭を下げた。中学生だろうか。顔を上げて見えた、まだあどけなさが残る顔立ちに、私も会釈を返す。当然、見覚えのない少年だ。    そこはある路線の終着駅だった。駅の輪郭を区切る鉄柵の向こうには海が広がり、改札を抜ければ小さな公園がある。ただそれだけの、まるで袋小路のような駅だった。  そんな場所に好んで降り立つ乗客はあまりおらず、その日も私一人だけ乗せた電車は私だけを吐き出して、定刻を待つように線路の上で止まっていた。私はしばらく波打つ海と、その上を跳ねる魚を堪能して、ぐるりと公園を回る。さて再び電車に乗り込もうと思ったそんなタイミングで、少年に声をかけられたのだ。    ひどく、驚いた。たった二車両の電車。乗客は私だけだったはずだ。    そして人懐っこい彼の笑みを見て思う。もしかしたら、前の電車に乗ってきた人なのかもしれない。この路線、人は来ずとも一時間に一本の間隔で列車を走らせているのだ。前の電車に乗り遅れた人なのかもしれない。そう思うと少しだけ警戒心が解かれていく。  しかしそんな私をよそに彼は「どうも」と微笑み「キツネです」と継ぐ。心の中で『ヤバい人かも』警報が鳴り響き、曖昧な笑みで彼に応対する。そうして緩んだ警戒心を締め直し、そそくさと立ち去ろうとする私の前に、少年は立ち塞がる。この公園はひどく小さく、通路は一人半くらいの幅しかない上に一本道だ。迂回も、横に滑りこむことも出来そうにない。とはいえ後ろは小さなベンチと行き止まり(と、海)しかないわけで――退路を断たれた私は仕方なく「へえ、きつね……」と少年に言葉を返す。少年は満足そうに頷くと、私の持っていた手提げ袋に目をやった。 「お姉さん、いいもの持ってます?」  カツアゲのような言葉に、咄嗟にポケットの中の財布に手を伸ばす。少年は驚いたように目を丸め「ああ、そっちじゃなくて」と手提げ袋を指さした。そういえば海を見ながら食べようと思って、おにぎりを二つほど買っておいたんだっけ。思いの外お腹が減らなかったから、家で食べようとまだ手付かずのままだ。  どうやら少年はそれが目当てらしい。手提げ袋からビニールの袋に入ったおにぎりを持ち上げて「これ?」と私は恐る恐る口にする。少年は嬉しそうに頷いて「おひとつ、頂けませんか」と朗らかに応える。惜しい気持ちもあるが、さっさと立ち去りたい気持ちに天秤が振れる。心が折れる前にと袋ごと手渡せば、少年はその中を覗いて「ふたつ」と困ったように眉尻を下げた。「両方あげます」と私が口早に応えれば、彼は目を何度か瞬かせて、そうして軽く首を傾げた。 「一緒に食べませんか?」  当然、食べたくはない。私が「ええっとお……」なんて言葉を濁せば、少年は難なく私の脇を通り、その先にあるベンチに腰掛けた。そうして屈託の無い笑顔で「こっち」なんて笑うので、逡巡した私は走り逃げることもせずに、恐る恐る彼に近づく。残念ながら電車の発車時刻まで暫くある。ここで逃げたところで、電車の座席あたりで捕まるのが関の山だ。 「どちらがいいですか?」  そんな葛藤もしらず、少年はビニールからタッパーを取り出して、開き、私に向けた。まるで自分の物のような言い草に眉根が寄るけれど、そんなことを指摘して海にでも落とされたらたまったものじゃない。見下ろせば、おにぎり屋で買ったシンプルな塩握りが二つ。どちらを選んでも味は変わらないので「どちらでも……」と言うと、少年は手元にある方を持ち上げて私に差し出す。 「座って食べましょうよ」  彼が笑うので、こわごわと椅子に座る。奇妙な自己紹介の上昼飯を取られて、心は恐怖一色だ。  ちらりと彼を見れば、学生帽の下、嬉しそうにおにぎりの包みを開けていた。昨今のキツネ情勢なんてしらないけれど、こんな器用に包みを開けるキツネが居るわけがない。  嬉しそうにおにぎりを頬張る横顔が、瞳が、こちらを向く。交わる視線を慌てて逸らせば「器用でしょう?」と彼は笑う。 「里のみんなのなかで、一番器用なんですよ」  まだ『キツネ』を続けるらしい。潮騒に重なって響く笑い声に正解が分からず「へえ」となんとか声を絞り出した。奇妙な感覚に包まれて、食指が動かない。パッケージすら剥く気が起きずに、潰さないように手のひらでそれを包んだ。 「信じてないですか? この辺りにも里はあるんですよ」  そんな私の言葉が気に障ったのか、彼が唇を尖らせる。どうやら『キツネ』ではなく『里』の方に疑いをもたれていると思ったらしい。確かにここら一帯は廃墟になった工場跡がひしめき合い、絵本で見るような『自然豊かな里』の面影は欠片ほどもない。  ぺろりとおにぎりを平らげた彼がこちらに視線を寄越すので、黙ってもう一つおにぎりを差し出す。彼は学生帽を取り「ありがとうございます」と丁寧に返すと、私からおにぎりを取り上げてパッケージを剥がす。 「あの工場跡をずっと歩いた先に、川がありまして」 「うん」 「その川を越えてずっと歩くと、僕らの里があります」 「……そう」 「里には僕みたいな仲間が沢山いて」 「うん」 「気が向いたらこうして街に降りるんです。このあたりはあまり人がいないから、安全だし」  よほど腹が減っていたのか、みるみるうちにおにぎりは吸い込まれていく。その見事な食べっぷりに思わず視線を奪われ――彼が親指に残った一粒を舐め上げるまで見守ってしまった。彼の方に視線を向ければ「ごちそうさまでした」と再び学生帽を取る。「そこまではいいよ」と言えば、どうやら意図が伝わらなかったらしく首を横に向けた。 「ご旅行ですか?」  まだ電車の出発時間には時間がある。おにぎりを与えてしまった私の持ち物なんてもう財布程度しかない。帰り賃のこともあるので守り抜きたい私は逃げる口実を探けれど――それよりも先に少年はつなぎの言葉を吐き出す。 「……ちょっと寄ってみただけよ」  これは、本当。海が見たくなって携帯で検索したら、この土地に引っかかったのだ。それに旅行なんて。工場跡しかないこのあたりは旅館おろかコンビニだってありはしない。彼の言うとおりならば川はあってその先に山があるらしいが……観光地として聞いた事がないので、きっと泊まるところはないだろう。 「またここにきますか?」 「なんで?」 「ほかにも味があるのかと思いまして」  脈絡のない会話はここに繋げたかったらしい。少年は名残惜しそうに空になったビニールを見つめ、そうして乞うような瞳をこちらへと向ける。どうやら随分と美味しかったらしい。変哲も無いおにぎり屋だったけれど、自称キツネの胸は見事射貫いたようだ。 「まあ、それなりにあったけど」 「例えば?」 「梅とかツナマヨとか……お肉もあったかな、しぐれ煮とか」 「へええ」 「……そんなに美味しかった?」  私が尋ねれば少年は学生帽を外して、恥ずかしそうに顔をそれで覆った。使い慣れているのか、随分と熟れた小道具の扱いに私は思わず小さな笑いを零す。少年はその音につられて学生帽からちらりと顔を覗かせ、恥ずかしそうにはにかんだ。随分と警戒してしまったけれど、見た目はどこにでもいる(ちょっと古風な)中学生だ。可愛らしいその姿に、すっかりと警戒心が解けてしまった。 「他の味も食べてみたいです」 「じゃあ今度、また買ってこようかな」 「本当ですか?!」  爛々と輝くその瞳に負けて、頷いてしまう。その節電車のベルが鳴り、私は慌てて立ち上がった。律儀にも空っぽのビニールを差し出す少年に(確かにキツネはゴミ捨てしないよな)とそれを受け取って、駅の道を小走りで抜ける。  着いてくる足音はなかった。少年は満足そうな顔をして、嬉しそうに手を振っている。  電車でちゃうよ、と喉元まで迫り上がった言葉を、飲み込む。潮騒をかき消すようなベルが耳朶を打ち、走る速度が上がる。  駅にぶつかる波の音が強まり、丁度扉をくぐる寸前、私は公園の方に目をやった。そこには随分と小さくなった少年が未だに手を振っていて、私も二三度振り替えし、電車に乗り込む。  重苦しい音を立てて、扉は閉まる。見回したけれどやはり乗客は私一人で、座席に座るよりも早く、電車はその巨体を揺らし、ゆっくりと走り出した。  手には空っぽのタッパーと、開封されたおにぎりのパッケージが入ったビニール袋。口を閉めて鞄に入れれば、ぱきりぱきりと固い音が電車に響く。  結局見知らぬ少年におにぎりを奢ってしまった。しかしどこにでもあるチェーン店のおにぎりを、あれだけ美味しそうに食べる姿は初めて見た。どこか不思議な充足感を覚えて、遠くなる海岸沿いを見送る。電車はトンネルに入り、暫く走って、都市部に繋がるターミナル駅へと辿り着く。    次の日、会社へ行くために扉を開けば、なぜか大きな葉っぱに乗せられたどんぐりがいくつか、扉の脇に置かれていた。季節外れのその木の実に思い当たる節はない。……いや、ある。ひとつだけ。 『キツネです』  朗らかに笑う古めかしい少年が浮かび――本当にキツネだったのだろうか、と思う。しかし電車を乗り継いで一時間と少し。ここまで彼はやって来たのだろうか。彼ならば、どうやって家を知り得たのだろうか。いろいろ考えることはあれど、私はその葉ごとどんぐりを拾い上げて、庭へと入りそれを埋める。埋めながら、次は何のおにぎりを買っていこうか、なんてことを考えた。潮騒の音に紛れる彼の笑い声を反芻しながら、梅がいいかなあ、なんて、なんて。
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