通り雨

1/1
前へ
/34ページ
次へ

通り雨

 陰鬱な灰色の雲も、嵐のような雷雨も、もう風に流されてしまったようだ。遠くに膨らむ入道雲。ここぞとばかりに鳴く蝉の声。いきなり大雨を降らせてみては、あっけらかんと晴れ間を広げる。夏の天気は尾を引かない。  まさか五分で止むとは思わなかった私は笑ってしまうほど大きな傘を携えて、まさか五分でここまでずぶ濡れになるとは思わなかったらしい彼女は雨水を滴らせながら、隣同士、喫茶店のカウンターに立っていた。  店主が厚意で貸し出してくれたタオルから顔を出した彼女は「夏だからすぐに乾くと思いますけど」とため息を吐き出した。そうしてお団子のように後ろでまとめた髪へと手を伸ばし握りこめば、細く白い指の隙間から雨水がぽろぽろと零れる。溢れた雨粒は首を伝い、セーラー服の襟の向こうへ消えた。追いかけるように「ひゃ」と小さな悲鳴。まるで小動物のようなその声に、思わずくすりと笑いが零れる。 「笑いましたね……?」  恨めしそうな声と共に、眉宇の寄った険しい顔が此方に向けられる。「笑いましたよ」と観念したように言葉を吐けば、彼女はさらに眉間の皺を深く刻んでタオルでうなじを拭う。 「もう少し早く出会いたかったわ」  恨み言と共に向けられた視線の先には、新品の大きな傘。突然の雷雨に驚きコンビニで買ってしまった黒い傘は、私と彼女が入ってもまだ余裕があるだろう。  可哀想な彼女への慰めに奢ってあげたコーヒーは、まだ手を付けられずに湯気を燻らせている。せっせと身体を拭う彼女に「出会ったところで」と言葉を空気に溶かす。品の良いジャズに重なったその言葉は彼女には届かない。届いたら怒られるだろうけど、怒った姿も見てみたい気もする。  からんとグラスが音を立てる。私の目の前に置かれた背の高いグラスには、夏の海を掬い取ったようなソーダが泡を揺らしていた。てっぺんに乗ったアイスと氷の境界線を削いで口へと運べば、シャーベットのような舌触りが一瞬 。口の熱でそれは溶けて、甘いバニラだけが鼻に抜ける。 「寒そう」  彼女はこちらを向いて、湿ったタオルをカウンターに置いた。これは『食べたい』の言葉なのだろうか。長いスプーンでアイスを掬い、見せつけるように口へと運ぶ。 「世間は夏だからね、おいしいよ」 「風邪引いちゃうじゃない」  誘う態度に興ざめしたのか、ようやくコーヒーに口を付けた彼女は――すぐにカップから唇を離した。相当熱かったらしい。「あっつ!」という言葉と共に、すぐに息を吹きかける。  湯気が形を変えながら、天井へと登っていく。拭き残した雨水が、彼女の髪の毛を伝い、一粒、落ちた。 「食べるかい?」  スプーンを伸ばす、柄の長いそれは真っ直ぐ彼女へと向かい――かつんと、音。スプーンの向こうで彼女は変わらず眉を寄せている。「どうやって」と不機嫌そうな声に、私はまた笑みを零す。  薄いアクリル板のような境界は、こちらとあちらを隔てる為に建てられたものだ。道路の真ん中、あるいは川の中、あるいはこうした店の中まで愚直なまでに真っ直ぐに、この世界を隔てている。  天気や音楽、こうして言葉までも共有しているのに、なぜ手は届かないのだろう。彼女に手を伸ばせば、届く前にアクリルに触れる。からかうように彼女が板を軽く殴るけれど、薄くて透明なくせに、決して揺れはしない。体温さえも、伝わらない。  濡れたアクリルが、この境界線を悲しいほどに浮かび上がらせる。板の向こうの店主に「彼女に私と同じものを」と頼めば「寒いっていってんじゃん!」なんて彼女の声が耳朶を打った。
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!

15人が本棚に入れています
本棚に追加