コーヒーを飲まないと出られない部屋

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コーヒーを飲まないと出られない部屋

 雨が降っているから帰れない、との彼女の言葉に、私ははっとしました。午後七時を知らせる時計の音。重低音で響くそれは、店内に響く柔らかなBGMを裂くように、ぼおんと、響きます。  彼は彼女の言葉か、それとも時計の音に気がつき顔を上げました。そうしてガラスを走る雨粒を見つめて「ああ」と気のない言葉を吐きます。「本当だ、雨が降っているね」  夕食時だというのに、この小さな喫茶店には彼女と彼の二人きりでした。彼は喫茶店のマスター。彼女はこの喫茶店の近くの高校に通う、女子高生です。曜日は水曜日。平日の真ん中だから人が居ない――なんてことはなくて、この喫茶店はいつも閑古鳥が鳴いているのです。  高校生にも手が届きやすい値段帯。木目調でそろえられた柔らかな店内。ドールハウスを思わせるかのようなパッチワークの布を当てた可愛らしいソファ。品の良いジャズ。店内の空気に混じる、コーヒーの芳ばしい香り。全て店長である彼の趣味が詰まった空間です。  学校近くにある商店街の一画に店を構えたときはもうすこし客入りがあるかと踏んでいたのですが、彼の思惑をあざ笑うかのように、チェーン展開をしているコーヒーショップに人々は吸い寄せられていき、やってくる客は朝から昼にかけて雑談を広げるご老人と、放課後は大抵彼女ひとりだけでした。  彼女は大抵クリームソーダを頼みます。アイスの淵を沿うように、くるくるソーダをかき混ぜては、たまにそれを啜ったり、結露した水で机に絵を描いたりしていました。彼はカウンターの向こうで飲む人のいないコーヒー豆を挽きながら、お湯を入れて、自身でそれを啜っています。  本当はクリームソーダなんてメニューに入れる予定は無かったのですが、ここに店を構える際に高校生受けのするようなものを入れた方が良いなんて商店街の会長に言われ、渋々追加したものでした。それが今では貴重な収入源になっているなんて、なんとも皮肉な話です。  天井のシーリングファンが、コーヒーの香りを攪拌していきます。彼女はコーヒーは飲めませんが、コーヒーの香りは好きでした。ほんの少し緩まるその頬に、彼は「折角だから飲んでいけば?」と水を向けますが「苦いからいい」と素気ない返事です。雨は降り続いています。彼は肩を落として「そうか」と言いました。ジャズの音の隙間に、微かに雨音が重なります。窓の向こうには雨で煙る商店街が映し出されています。 「傘は持ってないの?」 「忘れちゃった。降るとは思わなかったんだもの」 「お昼まで晴れてたしね」 「置き傘はないの?」 「ないよ、そんなものは。置く客が居ないからね」 「ふうん。なら今度一本持ってこようかな」  まるでスノードームのような緩慢な空気が流れるこの喫茶店が、本当に隔絶された世界なんてことは、彼女たちは知りません。それを知っているのは俯瞰して眺めている私だけです。なぜそんなことをするかというと、それはもう文字通り『神様の気まぐれ』というやつなのですが、なかなかどうして、仕事に疲れた身体にこの穏やかな空気は心地よいのです。こっそり盗み見る世界。そうして密やかに隔離してしまうこのスリル。  彼女の言葉に一瞬ヒヤッとしましたが、こちらの意図には気付いていないようで安心しました。私は微笑みながら彼女たちを見下ろします。彼はコーヒーを啜り、彼女は結露したグラスに指を滑らせました。ジャズの音色に、二人の欠伸が混じります。時計は、午後七時半を指していました。  雨音で断絶された世界はそのまま。喫茶店という箱庭の中で、彼女と彼の二人きり。優しい音色はただ世界を包むだけ。私はそれを、眺めているだけです。 「コーヒーを飲むかい?」彼がまた彼女に語りかけます。彼女は首を横に振り、くるりとまたスプーンを回しました。  雨はまだ、降り続いています。
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