登校時間

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登校時間

 朝起きたら、地面に水が積もっていた。水没と評すには浅く、津波にしては随分と凪いでいる。まるで雪のようにたおやかに地面を覆うそれに、外階段をおりていた私はあちゃーと、声を漏らす。一人暮らしの小さなアパート。2階から地面に降りるにはこの外階段を降りるしかない。しかし最後の1段が見事に水に呑まれていてーーあちゃー。再び声を漏らす。漏らしたって何も無いのだけれど、あちゃーとまた、無為な声を絞り出した。  しかしながら考えてもしかないので、靴下だけを脱ぎ捨てて水の中に足を差し込む。ぷくぷく。水泡が靴の輪郭に沿って揺らぐ。どこか外国で、こういう文化があった気がする。くるぶしが沈む。何処だったっけ? 足首に、水面が絡みつく。 「アクアタルタだね」  そうしてあたりの水面が僅かにざわめく。小さな波が生まれ、足首にぶつかるそれは、飛沫を上げて落ちていく。なるほど。簡易的なカヌーを漕ぎながらやってくる友人に「やあ」と声をかける。友人も「やあ」と言葉を返す。「君も乗るかい?」 「転覆しない?」 「保証はないね」 「速度は出る?」 「君の歩く速さくらいなら」  しばらく悩んだ私は、彼のカヌーに脱いだ靴下と通学鞄を収める。 「賢い判断だ」   偉そうな彼の言葉が、妙に癪に障る。  昨日まで車の往来があった道路も、夢のようにだだっ広い。目の前は赤信号。その下には僅かな風に吹かれ生まれた波の尖りが、陽光を吸い込み白くキラキラ輝いている。  職務を全うしている信号に倣って止まれば、彼も器用にカヌーを止める。歩道の上、オールを地面に突き立てた彼は「今日は遅刻かなあ」と見晴らしの良い道路を見渡す。信号が青に変わる。歩き始めたら、ちゃぷりちゃぷりと波が鳴く。 「カヌーって、車道?」 「歩行者では無いのは確かだね」  緩やかにオールをこぐ彼は、酷く楽しそうだった。私はそんな彼を横目で見ながら、時折水面を蹴りながら、この水没した道をただただ歩く。  海外の人って、やっぱ長靴履いてるのかな。  ふと思い立ち、検索。スマホ画面の向こうに出てくる異国の情緒と、地面に敷かれた水の絨毯。 「あ」 「なんだい?」 「アクアタルタじゃなくて、アクアアルタだよ」  私の一言に彼のオールが僅かに揺らぐ。が、すぐにいつもの調子で漕ぎ出して「そうとも言う」と笑い飛ばす。 「車道だとか名前だとか、細かいことを気にしていると大人になれないぞ!」 「だからといってカヌーを引っ張り出す男を大人と呼びたくないんですけど」  歩く速度で水面を滑る。穏やかな波紋が広がり、彼の軌跡を示していく。 「でも共犯者だ 」  彼は言う。物言いたげに後ろに目線を配りーー私の荷物の山があるーー上機嫌にオールを漕ぐ。 「さあ、1限目に間に合うためにラストスパートをかけるか!」  オールが大きく水をかきあげた。光る飛沫は陽光を反射して煌めくがーー対して上がらないスピードに、遅刻する姿が鮮明に浮かんだ。
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