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「お兄さん、おススメはなあに?」
「あー、そこの棚にある地酒とか結構美味しいって評判ですよ」
お客さんのテーブルからグラスを回収しながら、今店で仕入れている近所の酒蔵の瓶を指さす。
「ああ、あの新聞で包装されてるやつ。じゃあそれもらおうかな」
「はい、ありがとうございます」
手際よく注文を控えて厨房へ引っ込むと、バックヤードから店長が「瞬、ちょっとこっち来て」と手招きをしていた。
「はい?なんすか?」
「忙しいときに悪い。来月のシフトの相談だけど、人手が足んないんだよね、もうちょっと入れたりしない?」
どうやらシフト表を作っている所だったらしい、店長はパソコンの画面をみて難しい表情をしているので瞬(しゅん)はすみませんと小さな声で謝った。
「あー……えと、俺、来月から就活で……」
「え?うそ、もうそんな時期?」
店長が驚いた表情でこっちを振り返る。大学に入学してからずっとお世話になっているので、まだまだ学生だと思われていたらしい。
「そっか、なら仕方ない」
「すみません、終わったらまた入れるんで」
「了解。瞬もとうとう就活かー……どこ受けようとか考えてる?」
「いや…まだはっきり決めてないんすけど、それなり会社でそれなりに生活できそうだったらどこでもいかなって」
「お前らしいっちゃらしいけど…そんなんで良いんか?やりたいことないの」
「うーん、ないっすね」
「……まあお前器用だし、どこいっても何となくでやってけそうな気はするけど」
困ったら最終ここで面倒見てやるから言えよ、と言ってくれる店長に「ありがとうございます」と頭を下げると、仕事に戻っていいよと手で追い払われた。
バイト先は朝方まで営業している飲み屋なので、仕事を終えて店を出ると既に太陽が昇っていた。
店の近くにはそこそこ大きな駅があって、いつも駅の中を抜けて帰ることにしている。普段ならこの時間は通勤するサラリーマンでごった返している駅周辺もその構内も、今日は日曜日ということで人はまばらだった。
〜〜♪
飲食店やアパレルショップが並ぶ通りを歩いていると、ふと、どこからかピアノの音が聞こえてきた。一瞬どこかの店のBGMかと思ったが、まだ時間的に開いている店は少なく、BGMにしてはやけに音がはっきりしている。
本物のピアノの音だ。しかしこんな駅の構内に何故ピアノが?と思う。というか、誰が弾いてるんだろう?なんとなく気になってピアノの音をたどって歩いてみることにする。
しばらく歩いてたどり着いたのは、普段は通らない方向にある広場だった。ガラス張りの廊下に花壇と時計があって、ちょっとした待ち合わせ場所みたいになっている。その時計の下に、見慣れない黒いアップライトピアノが置いてあった。
ピアノを弾いていたのは学生服に身を包んだ男の子だった。たぶん高校生くらいだろう。曲はランゲの花の歌で、その迷いのない弾き方や指運びからして相当弾き込んでいるんだろうということが見てとれる。
彼の技量も確かだが、それよりも朝日が差し込む誰もいない広場で、人目を憚らず、目を閉じて気持ち良さそうにピアノを弾いている姿になんとなく目が離せなくなってしまった。
弾き終わって、彼がふとこちらを振り返った。ばっちり目が合う。あ、なんか気まずい……と思ったのもつかの間、彼は少しだけ照れたようにはにかむと「このピアノ寂しそうでさ」と言う。
「え?」
「誰も弾いてくれなくて、可哀想だから弾いてあげてほしいんだよね」
じゃあはい、交代。そう言うと彼はさっとピアノの席を瞬に譲ったかと思うと、ニコニコと笑顔でこちらを見てくる。
「いや、俺はべつに……」
「僕はもういっぱい弾いたから後はお兄さんにお任せするね」
予想外の展開にうろたえる間も無く、さあさあと彼の笑顔に押されてあっと言う間に椅子に座らされてしまった。
どうしよう。
光沢のある白鍵の上に恐る恐る手を置く。アコースティックピアノは久しぶりだった。ピアノが弾けないわけではないが、さっきの彼みたいな見事な演奏ができるだろうか。
それでもピアノの前に座ってしまった限り、何も弾かずに逃げ出してしまうのはかっこ悪い気がするし、何か弾いた方がいいような気もする。しかし何を弾けば良いのだろうか。
しばらく悩んだ後、瞬はようやく最初の鍵盤を叩いた。
花のワルツ。
それは瞬が高校の頃に演奏会用で練習した曲だった。色々あって演奏会には行けなかったのだが、発表する機会がなくなっても好きで時々弾いていたので指がよく覚えている。花繋がりで安易すぎるかと思ったが、ぱっと浮かんだ曲がそれしかなかったのだ。
弾きながら、瞬は先程の彼があれほど気持ち良さそうに弾いていた理由がなんとなく分かった気がした。部屋で弾くのとは全く違う響きがする。音楽は開放されるとこんな風に聞こえるのかと思うと、少しだけ楽しくなった。
最後の音で余韻を作る。広場に一瞬静寂が戻る。その時、背後から複数の拍手が聞こえてきて驚いて振り返ると、いつの間にか通行人と思わしき人が何人か足を止めて聞いていたことにようやく気がついた。
「あ、どうも……」
よく考えればここは駅のど真ん中だ。こんな人前でなにやってるんだろう。
とたんに恥ずかしくなり、周囲に軽く会釈してそそくさとピアノから離れた。男の子の姿はどこにもなかった。
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