シトラスローズの香り

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 シートベルトのサインが消え、機体は水平飛行へ移行した。落ち着きを取り戻した少年は、座席を立って、荷物棚を見上げた。つま先立ちで手を伸ばしても、棚は奥に向かって坂になっていて、片足を浮かせながらやっとこ荷物を探っている。少年が悪戦苦闘していても、手助けする人がいない。どうやら一人での搭乗らしかった。  私は立ち上がって、代わりに取り上げたいなって思っても、やっぱりためらって身を引いた。小学生か中学生かの微妙なお年頃、私には子供もいないし、男兄弟もいなかった。恐らく思春期真っ只中で、私みたいな女に取ってもらうなんてイイ気はしないだろうから。  少年は指先の感覚だけで、目当ての物を掴んだらしかった。「よしっ」って飛び出た喜びの声は、本人として予想外だったらしくて、おサルさんみたいに赤面していた。その顔を見れば小学生と思えた。  目算で身長は150cmくらいに見えた。上下一式NIKEのスポーツウェアで、靴も靴下もそうだった。私は密かに微笑んだ。こういうこだわりは、好きなタイプだ。話が広がるきっかけになるからだ。  私は14歳からフランスで一人で生きてきた。海外で成功したいのなら、自己主張は欠かせない。NIKEで統一することは、NIKE好きがいたなら好意を持って声を掛けられるだろう。但し、目を引くということは、それを気に入らないと感じる相手にも映ってしまうのだが。それはまぁ、いずれ当たる壁であって、味方を得ることが出来れば大成功だろう。  少年は何を目的に日本を発ったのか。フライト先はウルグアイ、ブラジルだったらサッカーだって確信できるけど、ウルグアイとなると、、、。やっぱりサッカーなのだろうか。そこのところのお国柄はわからなかった。  少年は棚から手のひらサイズの小さな紙袋を取り出した。手紙の頭が飛び出ていて、少年が抜き取ると、品のあるシトラスローズの香りがした。きっと香水を買った時の紙袋なのだろう。恋人じゃない。手紙は母親からなのだろう。  少年はくしゃくしゃな手紙を一生懸命手で直していた。荷物で潰してしまったのか、掴むときに自分でやってしまったのか。見てわかる落ち込みように、母親へ対する愛情を感じた。  淡いサクラ色の封筒に、一輪の桜の花びらの押し花、きっと母親、いやお母様のお手製なのだろうとかってな想像をした。  少年が封筒から3枚の便箋を抜き取った。それを横目で覗くと、お手本のような文字が、印刷されたように整列している。育ちの良さが見てとれて、少年に対しても好感を持てた。  そうなれば、内容はどんなものかと知りたくなる。背もたれに埋まるように背中を引っ付けて、前屈みで手紙を読む少年の視界の後ろから目を細めた。1枚目の便箋には、 ・事実を書きます。  冒頭から惹き付けられる一文に、お母様からの手紙という判断が過ちのように思えた。  以下の文章も辛辣を極めていた。 ・あなたは考えなしにウルグアイを選びました。スペイン語が公用語だというのは、あなたも知っているでしょう。鞄の中にスペイン語の本があったのを見ました。けれどイタリア語やフランス語も使われるそうです。  では、あなたが暮らす地域では、何語かと言えばイタリア語だそうです。あなたの悪い癖ですね。海外でサッカーをしたいという思いだけで、不都合な問題には目を背けてしまう。あなたがお世話になるクラブはどんな戦術で、どんな選手が求められているかわかりますか? 監督の名前は? どれ程のレベルなのか? プロになれるのか? 自分には合うのか? 日本を出る程の価値があるクラブなのか? あなたはこの質問にいくつ答えられますか?  きっと1つも答えられないでしょう。また中学校と同じ過ちを繰り返していますね。それをあなたはわかっていて、あえて調べなかったのでしょう。お母さんも、あえて追及はしませんでした。  少年はせっかく手で伸ばした手紙をクシャリと握りつぶした。瞼を閉じて、上から押さえつけられたように頭を垂れた。お母様の指摘に反論の余地がないのだろう。並べられた正論は、他人の私ですら胸を刺す痛みを感じた。あなた、なんて他人行儀な呼び方が、少年とお母様の距離を表している。  手紙だからこそ、ここまで読みきることが出来たに違いない。面と向かって言葉を投げつけられたのなら、会話になることもなかったのだろう。少年が泣いていたのは、日本や家族が恋しかったからではなかった。選択の過ちに対して目を背けたことへの不安なのかもしれない。見送りに来たであろうお母様とは、一切しゃべっていないだろうことは、容易に想像できた。だからこその手紙なのだろう。  ふと私は自分の母を思い出した。私は5歳のときに、近所のお姉さんに憧れたのがきっかけでバレエを始めた。母はバレエとは縁もゆかりもないと言って、技術的なことには口を出さないけれど、練習姿勢に対しては手を出すほど厳しい人だった。  靴が合わない、足が痛い。そんな言い訳をすれば、玄関を閉め出されるなんてことは何度もあった。私だって頑固で、絶対謝らないって決めて、玄関前で一夜を過ごしたこともあった。  当時は母に反発して、厳しさの価値を理解していなかった。14歳でパリへ留学して、差別だったり、嫌がらせを受けながら主役へ登り詰めた。泣きたいことは沢山あったけど、人前で泣くことは1度もなかった。それは母の厳しさに比べたら、鼻で笑えるレベルだったからだ。  きっと少年のお母様も私の母と同じだろう。厳しさの価値を知っているのだ。  私は1度、母に何故そんなに厳しくするのかを尋ねたことがある。確か7歳くらいの時だった。理由がわかれば耐えられるって泣いて懇願した。だけど母は教えてくれなかった。年齢を重ね、バレエを理解するにつれて、母の嘘に気がついた。母はバレエの経験者だった。立ち姿でわかってしまう。なぜ嘘をついたのかと聞くと、 「技術面まで口を出したら、あなたを殺すと思ったからよ」  私は唖然とした。1度も褒めてくれない母なりの配慮とはいえ、母の言葉が現実的過ぎて笑えなかった。  少年は再び涙を流した。今度はしとしとと緩やかに頬をつたい、冷静さを感じた。お母様の正論を頭のなかでしっかりと消化しているのだろう。腕で涙を拭うと、体を起こして顔を上げた。握りつぶした手紙を再び手で直すと、一息ついて視線を戻した。指摘された悪癖と向き合っていた。  手紙の続きには、友達について書かれていた。それは学校の友達ではなく、クラブチームの仲間らしい。少年は葛城という名前に視線を留めた瞬間に、手紙から視線を外した。そして封筒にしまうことなく、紙袋へと直接戻した。  しばらく少年が手紙を読む様子はなく、ふて腐れたように唇を突き出して、目を閉じることもなく黙り混んでいた。  私は映画をつけた。搭乗前から見るつもりで楽しみにしていた日本映画なのに、どうにも集中できない。少年がいつ手紙を読み始めるのかが気になってしかだがなかった。  客室乗務員がカートを引いてきた。少年はオレンジジュースを求めて注がれた。それを一息で飲み干すと、口をつぐんで鼻で息をした。胸のふくらみがわかるほど、深くゆったりと吸い込んでいた。  どこか限界を達したように、少年が立ち上がるとトイレへ向かった。その弾みで足下に置いていた紙袋がコテンと倒れ、私を誘うように手紙がこちらへ飛び出してきた。紙を戻すために手を伸ばしたはずなのに、なかなか手から離れない。  ここまでの文面で推測すれば、少年は高校生へ上がる年齢で、サッカーでプロを目指している。行き先はウルグアイで、日本の中学校ではうまくいかなかった。もしかしたら葛城という仲間が、少年の海外に固執した引き金なのかもしれない。  ちょっと目を通すくらいなら、、、。私が背筋を伸ばして後ろを向くと、座席の男の子と目があった。少年と同じくらいに見え、やっぱり手紙はもとに戻すことにした。  少年は20分経っても戻ってこなかった。トイレで泣いているのだろうか? 親心のような気持ちが芽生えて、私は席を立った。声を掛けれるわけでもないのに、トイレへ向かう。ドアノブの赤いマークは入っている証拠、ノックして大丈夫?って声を掛けようか。それは踏み込み過ぎなのかと悩んでいる間に扉が開いた。  私を見上げる少年が、「あっ」って声を出して、またまたおサルさんみたいに赤くした。ちょっとトイレを振り返って、私を困ったように見つめた。  間が悪いことが申し訳なくて、気にしないよって伝えるために微笑んでみせた。少年にはしっかりと伝わったらしくて、ハニかんだ笑顔は、本当に高校生へと上がる年頃なのかって疑いたくなる。席へ戻る少年を見送って、私は用もないのにトイレへ籠った。便座に座ると、日本を発った14歳のあの日を思い出した。あの日は、独りになるためにトイレへ籠っていた。  初めての国際コンクールで、パリへの留学を手にいれた。学校の先生以外で外国人と話したことはなく、ましてやフランス人なんて出会ったこともなかった。急ピッチでNHKのフランス語講座を観ていた程度で、準備不足は明らかでも、不思議と不安はなかった。  バレエに対する絶対的な自信と、世界が変わることへの期待に高ぶっていた。それに私は空港での別れで泣ききっていた。男と女の違いなのかもしれない。私は隣の座席がサラリーマンのおじさんで、タバコの匂いが耐えられなくて、トイレへ避難していただけだった。  なんのドラマもないなって、思い出し笑いをした。少年は何を思ってトイレへ逃げ込んだのだろうか? 私は一応服の匂いを嗅いだ。指先からはシトラスローズの香りがした。  座席へ戻ると少年が手紙を開いていた。まだ1枚目、どうやら今読み始めたらしかった。少年は読むのを止めると、わざわざ立ち上がって席を通してくれた。 「紳士だね」  からかうつもりはないけど、少年のいじらしさにあてられて、「ありがとう」なんて安易な言葉は使いたくなかった。少年はコクンと頷いて、伏し目がちな目を合わせてはくれなかった。  手紙にはまたも辛辣な言葉が並べられていた。葛城が家に来きた日のことが書かれていた。 ・あなたはあの日、理由もなく家を空けていましたね。葛城君が訪れることを知っていたのでしょう。葛城君がプロ契約を結んだことを聞きました。世代別日本代表にも選ばれたことも聞きました。  劣等感やひがみを抱くことは仕方がないです。問題はそれに向き合わなかったことにあります。留学を葛城に隠していたようですね。恥ずかしい選択をしたとおもっているのですね。あなたがウルグアイへ行けるのは、実力で勝ち取ったものではないからでしょう。お父さんの力添えなんですから。  あなたは、日本にいては葛城君に勝てないから、環境を変えるしかなかったと考えたのでしょう。けれど、あなたは日本でもとても小さくて、それでいくつも苦労してきました。ウルグアイなら日本以上に苦労するのではありませんか? もし成功しなかったら、次はどの国に行きますか?  少年は2枚目を読み終えると、手紙を置いた。  きっとお母様は追い込むことで、背中を押しているつもりなのだろう。けれど私の時とは時代が違う。新たな門出でこんなにも厳しい言葉に、現代の男の子が耐えられるのだろうか?  少年は手紙を入れていた紙袋を足下から拾い上げた。中を覗き込むと、ワインのように揺さぶって、口元に近づけた。目を閉じて、全身に巡らすようにシトラスローズを吸い込んだ。  少年は手紙に怒っている様子はなく、葛城の輝かしい未来を知って落ち込んでいるわけでもなかった。もともと知っていたのだろうか。意識している相手なら当然かもしれない。お母様は知らないと思っているのだろうか。いや、それはない。あえて書いたと考える方が自然な気がする。  私が母親からこんな手紙を貰ったら、1枚目の時点で破り捨てていただろう。少年は2枚目を読み終えて、最後の3枚目を一番上に入れ代えた。  これまでとは一変して、ウルグアイでの受け入れ先への対応が書かれていた。挨拶やお渡しするお菓子の説明。どの人にどれを渡すかなどが書かれていた。  その途中で少年が立ち上がった。上の棚から荷物を取り出して、中身を探って顔をしかめている。何かに気づいたらく、わかりやすくうなだれた。きっとお菓子の確認をするつもりだったのだろう。そのお菓子が預けたトランクに入っていた事に気づいたのだろう。落ち込んだのは、そういったことが何度もあるのかもしれない。お母様に指摘されている姿が目に浮かんで、笑ってしまうのを私は目を閉じて堪えた。  少年は席について残りの文章を読み始めた。そして最後の一文に親指を乗せて滑らせた。その一文は、 ・お母さんはプロになるまで、あなたと会いません。プロになるまで会わないと宣言したあなたを信じています。  私は間違いに気づいた。手紙の文言で読み取れる辛辣な姿は、身を引き裂く思いで演じていたに違いない。ただ最後の最後に堪えきれなかった。その証が滲みとして残っていた。最後の一文字が雪の結晶のように丸く滲んでいた。少年はそこを何度も触れて、涙を流していた。  少年のしとしと流れる涙は何度拭っても止まらない。押し殺して鼻をすすり、乱れる呼吸を呑み込んでいる。  私は頑張れって抱きしめたかった。大丈夫だよって背中を支えたいけど、堪えるしかなかった。こんなにも胸が熱くなったのは、私が日本を飛び出した時以来で、他人に対して抱いたのは初めてだった。  舞台中央に立つものとして、後輩の面倒は見てきたつもり。だけど、それは求められた仕事をこなしてきたに過ぎなかった。誰かを思って本気で怒ったことも、泣いたこともなかった。  雪がポツポツと落ちていくように、無数の後輩の顔が浮かんできた。どの子も泣かず飛ばずで舞台から消えていった。もしあの時、私が本気で向き合って、傷つけてまで指摘していたら、彼女たちはまだスポットライトを浴びていたのかもしれない。  少年は手紙をしまって目を閉じた。私も合わせて目を閉じた。フライトはまだ5時間はある。寝てしまおうと思っても、初舞台の前日みたいに高ぶっていた。  目を開くと、少年も開けていた。お互いに目が合って、私が微笑み掛けると、少年も笑った。  それからはお互いの時間を過ごして、飛行機が到着した。ぞくぞくと機内を出ていく搭乗客の列が遮っている。少年は突然席を立った。紙袋だけを手にとると、列をこじ開けてトイレへ駆け込んだ。  私は後を追って、ドアへ耳を傾けた。少年の絞るような嗚咽が聞こえてくる。私はドアをノックして、「大丈夫」って声を掛けた。それは嗚咽でかき消され、私はもう一度ドアを叩こうとした。 「帰りたい、、、」  少年の弱音が聞こえてきた。私は叩くのを止めた。席へ戻って棚から自分の荷物を取り出すと、少年の荷物が目に留まった。下ろそうかと思っても、やっぱりやめた。わたしは少年がトイレから出てくる前に飛行機を降りた。  荷物が出てくるまでコンベアーの待っていると少年が現れた。少年は電話をしている。無事に着いたことの報告と、大丈夫だって事を伝えていた。  どうやら弱音は機内のトイレへ吐き出したようだった。私は声を掛けなくて良かった安堵した。少年はこれから一人で戦っていかなければならない。一時の優しさなんて価値はない。踏みにじられて強くなる。少なくとも私はそうだった。  私は流れてきた荷物を掴んで、到着出口へ向かった。出迎えてくれたのは、私が蹴落とした友人のミシェルだった。  現役時代のくびれていたお腹は見る影もなく、浮き輪を巻いたようたるんでいた。4人の子供たちに囲まれて、小麦色焼けた肌にはシミかある。 「彼に捨てられた気分はどう?」 「大した事じゃない」 「相変わらず、可愛くないのね」 「あなたは、ずいぶん親しみある体になったのね?」 「そんな事を言いに来たの?」 「それ以外にどんな理由があると思って?」  ミシェルは大口を開けて笑って、 「安心したよ。泣きつかれたどうしようかと思っていたからね」 「もしそうしていたら、あなたはどうしていたの?」 「お尻でもひっぱたいて、追い返していたわ」  ミシェルが笑うと、よくわかっていないだろ子供たちもつられて笑っていた。それが愛らしくあり、羨ましくもあった。一番小さな女の子が跳ねるように近づいてきて、私の手を握った。いきなりどうしたのかと思うと、私の指先に小さな鼻を近づけた。 「良い匂いがする」  ミシェルが運転する後部座席に乗った私の隣には一番小さな女の子が座った。私の手を握ったまま寝入ってしまった。 「これからどうするの?」  ミシェルに聞かれ、私は小さな女の子の頭を撫でた。                   おわり
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