光~徳川家光が愛した女子~

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 人払いをして誰もいなくなった室内で独り、壮年の男は褥に横たわっていた。疲れたように一つ、息をつく。漸く、この時が来た。待ち望んでいた、この時が……。  男は震える手で握っていた巾着を開き、中から小さく畳まれた文と桜の花袋を取り出す。何度も何度も眺めては撫でていた花袋は色あせて少し汚れており、文はかつての張りもなくふにゃりと柔らかい。花袋を持ちながら、その文を開いた。 ――幸あれと、この花袋に願いを込めて。  震えて、少し斜めに綴られた、懐かしい筆跡。思わず口元に笑みが浮かんだ。  今でも鮮明に思い出す。幼いあの子を追って緑の中を駆けた、あの日々を。長い黒髪を靡かせて屈託なく笑っていた、あの子を。  在りし日を思い出して、男はクツリと掠れた声で笑った。もうずいぶんと歳をとったものだ。あの日のように走り回ることはもうできない。否、もうこの身体は布団から出ることもできないだろう。 (もうじき、そなたの元へ行ける……)  この時を待ち望んで、駆けてきた。男は震える手で花袋と文を眼前に持ち上げる。  すべてが、終わる。そしてあの子の元へ行くのだ。その時は、どうか――。 「……微笑ん……で、抱きしめ、させて……く、れ――……」  ――――なぁ、シノ……。  重力に従って、褥の上に腕が落ちた。ふぅ、と一つ息をはいて、男の意識は暗闇に呑まれる。それでもその手が花袋と文を離すことはなかった。
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