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「国松、君……」
国松と名付けられた竹千代の弟はお福の目の前でお江与の腕に抱かれていた。国松は次男ということもあってか、乳母は決められているが規律はさほど厳しくはなく、産まれてもお江与から取り上げられることはなかった。優しい眼差しで国松を見るお江与は美しく微笑んでいる。お福の隣で大人しく座っている竹千代は初めて見る赤子に目を真ん丸にしていた。
「若君のご誕生、お喜び申し上げます」
「本心でない喜びなど必要ない」
国松に向けていた優しさなどどこにもない凍てついた瞳がお福に向けられた。
「生まれなければ、あるいは姫であったなら……。そなたがそう思っていたことに気づかぬ妾と思たのかえ?」
フッとお江与は蔑むように笑んだ。その時、突然竹千代が立ち上がってお江与の元へトトトと歩き出す。無言でお江与の腕の中にいる国松を見た。
「く……まちゅ……」
ポツンと国松の名を呟いてそっと小さな手を伸ばす。それを見た瞬間、お江与は思わず竹千代の手をはらった。驚いた竹千代はペタンと尻もちをついて目を見開きお江与を見ている。
「竹千代君!!」
お福が駆け寄り、幼い身体を抱き寄せて思わずお江与を睨みつけた。いくら可愛がっていないとはいえ、我が子を振り払うなど。だがお江与はそんなお福には構わず、怯えるように強く国松を抱きながら忌々し気に竹千代を見ていた。
「触れるなッ。この子は……この子は渡さぬ!!」
お江与には竹千代の手が国松を奪う大人のものに見えたのだろうか。まるでその姿を見せることさえ厭わしいというようにお江与は腕の中でスヤスヤと眠っている国松を隠すように体勢を変えた。だが竹千代にはお江与の言葉は耳に入っておらず、その行動さえ認識していなかった。理由もわからず、ただひたすらに〝母〟という存在に否定され拒絶されたのだということばかりが竹千代の脳内を巡る。
お江与が一度も竹千代を見たことも無ければ言葉をかけたこともないのは竹千代も幼いながらに理解していた。それでもお福を含め誰もが竹千代の母君はお江与なのだと、可愛がっていただきなさいと言う。竹千代は幼いながらに夢見ていた。時折見かける姉達に向けられるお江与の優しい眼差しに、いつか自分もそんな眼差しを向けてくれるだろうかと。笑いかけて、お話して、誰もが言うように、伸ばした手を……取ってくれる、と。
だが竹千代に初めて向けられたお江与の眼差しは優しい母のそれではなく、まるで忌々しい敵を見る様な鋭く厳しいもので、初めて竹千代に投げられた言葉は拒絶の言葉だった。
「竹千代君、もう帰りましょう」
茫然と尻もちをついたままの竹千代をお福は抱き上げて、足早に部屋を去った。その姿に、お江与は視線さえくれなかった。それは竹千代の心に深く傷を残し、竹千代は三日三晩、高熱に魘された。
「若君、福がおります。ずっと福が側におります。たとえ御台様がどう振舞われようと、国松君が産まれようと、お世継ぎは竹千代君にございます。尊い御身なのですよ」
枕元で竹千代の額に浮かぶ玉のような汗を拭いながらお福はそう言い続けた。熱で潤み、ボンヤリとした瞳で竹千代はお福を見つめる。
「はーうえ、は……ぼくの……こと、きら、い……」
とても、とても怖い顔をしていた。熱に魘された今でも、竹千代の脳裏にお江与の顔がこびりついて離れない。
「福がおります。福が必ず竹千代君のお世継ぎの座を守ってみせます。ですからご案じめさるな」
竹千代の手をしっかりと握ってお福は微笑みを向けた。幼い竹千代にはお福が何を言っているのか、その言葉の意味も真意も何もわからない。それでもその言葉はどこか竹千代の胸にぼんやりと黒い靄を残した。
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