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江戸城は広い。だが城を家としている竹千代は迷うことなく庭園を歩いていた。既に太陽も赤く染まろうとしている。先程まで竹千代はお福に言われた通りに書物を読み、お福相手に剣術を学んでいたのだ。難しい書物に小姓達と交わす形ばかりの会話。容赦なく打ち込まれる木刀に竹千代はクタクタだった。お福は病弱で覇気のない竹千代を厳しく教育し、一切の妥協を認めなかった。
九歳になった竹千代にはもう、大人達の「世継は竹千代君ではなく国松君になるのではないか」という言葉の意味を理解しており、世継でなくなった自分がどうなるのかもわかっていた。だがだからといって世継でいるために必死になろうという気持ちも竹千代にはない。僅か六歳にして、竹千代はこの世のすべてがどうでもいいもののように思えて仕方がなかったのだ。
「ははうえー! ははうえ見てください!」
元気な声に振り返れば、そこにはお江与に駆け寄る国松の姿があった。視線の先にいる国松もお江与も竹千代には気づいていない。お江与はわざわざ国松の視線に合わせるようにしゃがんで、優しい微笑みを向けながら国松の差し出す一輪の薄紅の花を受け取った。
どうしてだろう、そんな風に竹千代はボンヤリと思う。どうして、その微笑みを見ただけで母が国松を愛しいと思っているなどとわかるのだろう。どうして、花を受け取るその仕草が、とても大切そうに見えるのだろう。
先程の国松の大声とは違い、お江与が何を言っているのか、竹千代の場所から聞き取ることはできない。けれどお江与の白い手が優しく国松の頬を撫でているのは見えた。国松はそれを当然と受け取って、ニコニコと母に抱き着いている。ジワリと胸の中で気持ちの悪い何かが蠢いた。
痛いわけではない。苦しいわけでもない。けれどなぜだか無性に、逃げ出したくなった。
国松は竹千代と正反対だった。元気にすくすく育ち、人見知りすることなく人前に出ることもできる。利発で、御台所である母のお江与も将軍である父の秀忠も、竹千代には顔を見ることもなく関心も示さないが、国松のことは殊更可愛がり、どれほど忙しくとも日に一度は顔を見に行っていると聞く。国松に付けられた乳母はおっとりとしていて、お福のように厳しくしないらしい。
竹千代はお江与と国松を見たくないとばかりに踵を返して駆け出した。その後ろ姿を見ている者がいることにも気づかず、竹千代は走った。真っ赤に染まった空が、どんどんと黒く塗りつぶされていく。その時僅かにヒュン、ヒュンと風を切るような音が竹千代の耳に聞こえた。
(誰か、いるのか?)
どう聞いても素振りをしている音に聞こえるが、大人のそれにしては些か強さがない。ならば子供だろうか? しかしこの時刻に江戸城にいる子供など秀忠の子だけであろうはずで、男の子供は竹千代と国松だけだ。国松は先程見かけたのだから違うだろう。
いったい誰がいるのだろうか。不思議に思って音のする方へそっと足を向ける。この先には秀忠が剣術指南役である柳生宗矩と共に稽古をする庵があったはずだ。
こっそりと庵のある方を覗き見れば、庵の側で国松と同じくらいの年であろう童が一人、木刀を振るっていた。飾り気のない地味な着物は決して高価そうには見えないが、汗だくになりながら木刀を振るう姿は凛々しく、子供であるのに大人のような覇気を感じさせる。
近づこうと一歩踏み出した時、カサリと足音が鳴った。その瞬間に汗だくになって木刀を振るうことに集中していた童が勢いよく振り返る。
「だれだ!!」
小さな身体であるのに、全身で警戒している様は立派だった。隠れているのもおかしいかと思って、竹千代は童の前に姿を現す。姿を現したのが子供であったことに驚いたのか、童は零れ落ちそうなほどに目を見開いて静かに木刀を降ろした。
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