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落とし物
「財布の紛失、ですか」
私の戸惑いのこもったオウム返しに、電話の向こうからため息交じりの声が返ってくる。
「そうなのよ。電車に乗ろうと思ったんだけど、切符が買えなくて」
「はあ」
一階の廊下を歩きながら、電話にあいづちを打つ。昼休みに廊下にいる人は少なく、耳に携帯電話を当てて歩いている私を気に留める者はいない。学食の無いこの専門学校では、学生の多くは教室でおにぎりや弁当といった昼食をとっている。
「今どきの若い人は、改札にピッとするだけで通るのよね。でも、もう80過ぎのおばあさんでしょう。そういうのもわからないのよ」
80過ぎのおばあちゃん。電話相手についての追加情報から、私は確信を深めた。この人は私の知り合いじゃない。
つい先月成人したばかりの私に、80歳を過ぎた知り合いなど数える程しかおらず、どれも親戚かその友人くらいのものだ。電話の声は、そのどれにも当てはまらない。
「携帯電話だけはエリちゃんにいつも持たされててねえ、助かったよ。」
おばあちゃんのお世話をしている人だろうか、その”エリちゃん”にも心当たりは無い。
私は意を決して訊ねる。
「失礼ですが、電話の相手を間違えてはいないですか。私はあなたの子供でも孫でもないと思うんです」
「うーん、確かに”エリちゃん”の声とは違うねえ。でも、困った時はここに連絡、って書いてある番号に掛けたんだけど」
私は脱力する。おばあちゃんには電話の相手が知り合いでないことは大した問題ではないようだ。
それにしても、私の携帯番号は、困った時の緊急ダイヤル先として駅の掲示板にでも掲示されているのだろうか。まさか、そんなわけはない。
ふと、実家にいた頃のことを思い出す。実家に住む祖母は、父の電話番号が書かれた紙を緊急連絡先として常に持たされていた。きっと電話の向こうのおばあちゃんも”エリちゃん”に同じものを持たされており、その番号を押し間違えた結果、私に繋がってしまったのだろう。
「そうですか、それじゃあ財布を探さないといけないですね」
気を取り直した私は、電話番号の間違いについてそれ以上追及することはせず、答えた。
偶然私の元に繋がってしまったその電話だったが、それでも”エリちゃん”の代わりに私が財布を探す手伝いをしてあげようと思ったのは、おっちょこちょいな一面を持ったそのおばあちゃんに、私をずっと育ててくれた祖母の姿を重ね合わせたからだと思う。
廊下を抜け、ようやく目的地の中庭に到着する。
四方を校舎に囲まれているその中庭のさらにど真ん中には大きな桜の木がある。他に人の姿はない。昼食はいつも、大好きな桜のあるこの中庭で食べている。3月も終わろうかというこの時期でも、外は肌寒い。寒さに縮こまっているのか、まだつぼみのままの桜の木の下のベンチに、私は腰を下ろした。
「それでは、今日一日の行動を思い出してお話ししてくれませんか」
そう促すと、おばあちゃんは訥々と話し出した。
「今日はお花見に行こうと思ってねえ・・・」
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